ウイスキーのお勉強(歴史)
蒸溜技術の歴史から、ウイスキーの起源、5大ウイスキーの歴史についてまとめてみました。かなり複雑ですので、ご参考程度でご了承下さい。
ウイスキーについての理解を深めるために整理してみました。勉強途中ですので、参考として下さい。蒸溜所の数等も日々変化しております。適時修正して参ります。
歴史や文化を理解する目的で、一部、その歴史も踏まえて整理してみました。
蒸溜技術の出現から地域別のウイスキーの歴史に触れてみました。
■蒸溜技術の歴史
まずは、蒸溜が出来なければ、ウイスキーは造れないので、蒸溜技術について触れてみます。
蒸溜という技術について、古いものでは紀元前2000年頃のメソポタミアのバビロニア人が行っていた可能性が指摘されていますが、これは不確定です。最も初期の化学蒸溜は西暦1世紀のアレクサンドリアの古代ギリシャ人によるものですが、これはアルコールの蒸留ではありません。一説に、最初の蒸溜アルコールの精製は、8世紀から9世紀にかけて中東で行われたものとされています。その後、蒸溜技術は、十字軍遠征を通して中世アラブ人から中世ラテン人に伝播し、12世紀初頭にラテン語で最も古い記録が残されています。
■アルコール蒸溜技術の歴史
蒸溜技術がウイスキーに応用された歴史について触れてみます。
アルコールの蒸溜がいつから行われていたかには諸説ありますが、現代のルーツにつながる最古の記録は、13世紀のイタリアにおいて、神学者・哲学者であったラモン・リュイ(1232~1315年)による錬金術に関する文献です。彼の師匠だったスペインの医者・錬金術師のアルノード・ヴィルヌーブはワインを蒸留したお酒を造って「アクア・ヴィテ」と名付けました。これは、ラテン語で「生命の水」という意味で、当時ヨーロッパに蔓延していた黒死病(ペスト)にかからなくなると信じられていました。ワインを蒸溜したお酒なので、ブランデーということになります。ちなみにヴィルヌーヴはリキュール(蒸溜酒から造った混成酒)の祖でもあります。錬金術(れんきんじゅつ)とは、最も狭義には化学的手段を用いて卑金属(錆びやすい金属の意)から貴金属(錆びにくい金属の意、特に金)を精錬しようとする試みのことですが、広義では、金属に限らず様々な物質や人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指します。「日本大百科全書(小学館、ニッポニカ)」によれば錬金術とは、古代~中世にわたって原始的な科学の試行錯誤を行った技術・哲学・宗教思想・実利追求などの固まりとされています。つまり、「金」に限らない、現代の「化学」に近いものだといえます。アルコールの蒸溜も修道院で行なわれ、その技術は、中世の修道院に広がり、主に疝痛(せんつう)や天然痘の治療用の医療目的で利用されたものです。
■修道院と蒸溜技術
ヌルシア(現在のイタリア、ノルチャ)のベネディクトゥス(480年頃~547年、中世のキリスト教の修道院長、西欧のローマ・カトリック教会である西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、「西欧修道士の父」、カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人、ベネディクト派、ベネディクト会)が、「すべて労働は祈りにつながる」といったように中世以来の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の一員が手分けして行っていました。そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれています。ヨーロッパに古くからある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよくみられるのはそのためです。ヨーロッパのワイン(ミサ・聖体礼儀に欠かせない)、リキュール(薬草酒等)、ビールは今でも修道院で醸造されているものも多いです。
ラモン・リュイは、神学者であり、フランシスコ会第三会(在俗会)会員でした。第三会(在俗会)とは、カトリック信者の団体のひとつで、盛式修道会(盛式誓願修道会、4大会則に準拠、バジリオ会則、アウグスチヌス会則、ベネディクト会則、フランシスコ会則)の指導のもと、在俗にありながらキリスト教的な完徳に達するために努力する者の会を指します。第三会の会員は修道誓願と共同生活を行わないために修道会員ではありませんが、完徳の追求という点では一般の信徒とも異なります。1290年にはフランシスコ会(13世紀、イタリアで始まったカトリック教会の修道会の総称)総長のライムンド・ガウフレディからイタリアの諸修道院で「術」を教えるよう依頼され、1292年にはローマ教皇(カトリック教会の最高位聖職者の称号)ニコラウス4世から公式に顕彰(表彰)されました。その墓は、サン・フランシスコ修道院(生誕も、死没もパルマ・デ・マヨルカ、地中海西部のバレアレス諸島マヨルカ島南西部)にあります。
このようにアルコールの蒸溜と修道院は深い関係がありますが、今でも具体的に、その影響が残っている蒸溜所もあります。例えば、有名なところでは、「リンドーズアビー蒸溜所」は、フランス北部に起源を持つティロン修道会(ベネディクト派)の修道士たちが、1191年にリンドーズ修道院(「アビー」は修道院の意)を設立した場所なのです。修道士たちは持ち前の知識と技術でこの新しい土地を有効利用し、自給自足の生活を成立させました。その技術のひとつとして磨きをかけたのがスピリッツの蒸溜なのです。リンドーズ修道院のジョン・コーズ神父は、ジェームズ4世(1473年~1513年、スコットランド王、在位1488年~1513年)の依頼で1494年にアクアヴィータ(生命の水)を蒸溜しました。これを公式なスコッチウイスキーのルーツと考える人も多いです。史料によると1494年にスコットランド王ジェームズ4世が、リンドーズアビーに住むジョン・コーズ神父に大麦モルト原料のアクアヴィータを注文しました。これが記録に残されたスコットランドで最初のウイスキーづくりとされています。リンドーズアビーがウイスキーの「心の故郷」と呼ばれる所以です。修道院は1560年に廃墟となりましたが、ウイスキーづくりは長大な年月を経て復活しました。現在の地主であるドリュー・マッケンジー・スミスと妻のヘレンは、生前のマイケル・ジャクソン(ウイスキー評論家)に会ったことがあり、そのとき、500年越しにウイスキーづくりを復活させる夢のような計画を想像して心を踊らせたのだといいます。旧修道院の敷地を見下ろす場所には、500年にわたって使われてきた古い農家と馬小屋がありました。その一角で、リンドーズアビー蒸溜所は2017年12月にウイスキーの生産を開始しました。
■キリスト教とワイン
カトリックでは、パンとワインはとても大切です。最後の晩餐で、イエス・キリストが、「これは私の体である」として、弟子にパンを分け与え、「これは私の血である」として、ワインを分け与えました。このため、カトリックの典礼(祭儀)であるミサでは、ワインは欠かせないものになったのです。さらに中世の時代、修道院は、巡礼者の宿泊場所でもあり貧しい人や病気の人を受け入れる場所でもあったので、医療やおもてなしのためにも必要でした。カトリック教会は、パンとワインは聖別されると、実体変化を通じてキリストの体、血、魂、神性、つまりキリスト全体になると教えています。
■アルコールの蒸溜の伝播
15世紀までにはアイルランドとスコットランドにも蒸溜技術が伝播しますが、当初は当時の他のヨーロッパ地域と同じく、アルコール蒸溜は薬用目的であり、ラテン語で「命の水(aqua vitae、アクア・ウィタエ)」と呼ばれました。その後、ゲール語やアイルランド語へ翻訳され、一部が訛って「ウイスキー」になりました。そして、蒸溜技術は、当時の専門家集団である「Barber Surgeons(理髪外科医)」のギルド(同業者の自治団体)を介して修道院で行われるものから、一般社会でも行われる時代へと移り変わっていきました。「バーバーサージョン」とは、12世紀ごろから18世紀のヨーロッパに存在が確認される「理髪外科医(りはつげかい、英語: barber surgeon)」で、髪を切る理容師が人体を切る外科医の仕事を兼ねていた職業です。
■蒸溜器(蒸溜機)の種類
蒸溜器(蒸溜機)の種類について触れておきます。
①単式蒸溜器(ポットスチル)
モルトウイスキーは、「単式蒸溜器(ポットスチル)」で作られます。もろみを蒸溜するための銅製の釜のことで、毎回、中身を入れ替えるので「単式蒸溜器」と呼ばれています。もろみの状態(原料が発酵した状態)でのアルコール度数は7%程度ですが、これを蒸溜することで、65〜70%程度までアルコール度数が上がります。なお、実際に瓶詰めされる際には、加水により40度ほどに調整されるのが主流です。単式蒸溜では、アルコール以外の多くの成分も同時に蒸溜されるため、香味成分を多く含んだ個性の強い蒸溜酒になります。
②連続式蒸溜機(パテントスチル)
近代になって新たに開発されたのが「連続蒸溜機(パテントスチル)」です。連続蒸溜は、たとえるなら1回ずつ蒸溜するタイプの単式蒸溜器(ポットスチル)がいくつも並んでいるのが連続式蒸溜機です。連続的に蒸溜できることから、短期間で大量の蒸溜ができます。反面、単式蒸溜器で蒸溜するよりも雑味などが取り除かれ、原料の風味が残りにくくなります。そのため、アルコール度数90度前後の、すっきりクリアなスピリッツが生成されるのが特徴です。おもにグレーンウイスキーの製造に用いられる方式です。現在の連続式蒸溜機は低コストで大量生産できることに特化するように改良されたためです。現在の連続式蒸溜機は手間がかからない分、ウイスキー産業に大きく貢献しているといえます。世界で一番初めにグレーンウイスキーを作ったキャメロンブリッジ蒸溜所の創始者のいとこであったロバート・スタインが1826年に連続式蒸溜機を発明しました。モロミ塔、抽出塔、清溜塔、メチル塔の最低4塔から成る多塔式が一般的です。背の高い塔の内側は穴の空いたトレイで棚のように何段かに仕切られ、一つひとつの棚を通過するたびにアルコール成分が分離される仕組みになっています。
③カフェ式連続蒸溜機(カフェスチル)
●1832年にイーニアス・カフェが「カフェ式連続式蒸溜機」をつくりだしました。カフェ式連続蒸溜機の名前の由来は、発明した「イーニアス・カフェ」の人の名前からとったものです。コーヒーの「カフェ」とは無関係です。
一般的な連続式蒸溜機が複数の塔で形成されているのに対して、カフェ式連続蒸溜機は、モロミ塔と清溜塔の2つの塔から成ります。通常の連続式蒸溜機よりも塔が少ない分、蒸溜回数が減るため、スピリッツに原料由来の風味や成分が残りやすいのが特徴です。現在主流となっている連続式蒸溜機はアルコール精製度を高められる反面、香味成分までも除去してしまいます。
カフェ式連続蒸溜機は初期に作られた連続式蒸溜機であり、旧式で蒸溜効率は劣りますが、「カフェ式連続式蒸溜機」の蒸溜液には原料由来の香りや成分がしっかりと残ります。現在主流の連続式蒸溜機と比べて香味あふれるスピリッツを製造できることから、あえてカフェスチルを採用する蒸溜所もあります。しかし、現代的な連続式蒸溜機よりも操作が難しく、蒸溜効率も悪いため、世界的にカフェ式連続蒸溜機を使用する蒸溜所は少ない傾向にあります。
●竹鶴政孝がカフェ式連続蒸溜機にこだわった理由は、ブレンデッドウイスキーを重視していたからだといわれています。
1962年の購入当時、スコットランドでは連続式蒸溜機の改良が進み、2塔式のカフェ式連続蒸溜機はすでに希少な存在でした。しかし竹鶴は、本格的なブレンデッドウイスキーを造るには、香味豊かなグレーンウイスキーを製造できるカフェ式連続蒸溜機が不可欠だと考えていたのです。これには、自身がスコットランドのボーネス蒸溜所で研修を受けた際、カフェ式連続蒸溜機が採用されていたことも影響しているのかもしれません。竹鶴は、香味成分がしっかり残るグレーンウイスキーを伝統製法で生み出すため、あえて最新設備ではない旧式のカフェ式連続蒸溜機を導入し、「本物のおいしさ」をとことん追求することにこだわったのです。竹鶴氏は、1919年にロングモーン蒸溜所(シングルモルト、ブレンド用原酒)とボーネス蒸溜所(1926年閉鎖)で、1920年にヘーゼルバーン蒸溜所(現スプリングバンク蒸溜所)で学びました。ボーネス蒸溜所は、1813年にエディンバラから20kmほど北西に位置する町ボーネスに創業しモルトウイスキーを生産していました。しかし、2度の所有者交代に伴ってポットスチルは解体、代わりにカフェスチルが設置されて1876年以来グレーンウイスキーの専門蒸溜所となっていました。
竹鶴氏が実習を行った2年後の1921年にジョン・デュワー&サンズ社に買収され、さらに当時グレーンウイスキーの最大手だったディスティラリー社(DCL)が買収、1926年に閉鎖となりました。1900年代初頭は、「ウイスキー不況」といわれる時代で、1930年代の「世界大恐慌」、第二次世界大戦(1939年~1945年)、と激動の時代、多くの蒸溜所が閉鎖しました。
■ウイスキーの起源
■アイルランド説とスコットランド説
ウイスキーの起源についてはアイルランド説とスコットランド説が古くから知られていますが、共に15世紀以前に根拠を求めるものは裏付けに乏しいのが現実です。
①アイルランドで最も早くにウィスキーについて言及される史料は、17世紀に成立した先史時代から1408年までのアイルランドの出来事を網羅した「クロンマクノイズ年代記」であり、リチャード・マクランネルという男が、1405年のクリスマスの日にアクアヴィータ(命の水、アクア・ヴィテ)を大量に飲んだ後に死亡したという最古の記録が残っています。「クロンマクノイズ」とは、アイルランド最長の川、シャノン川のほとりに、6世紀、アイルランドの12使徒(キリストの弟子)のひとり聖キアランによって建てられたという修道院で、アイルランド最大の初期キリスト教修道院です。起源は545年に遡るというこのクロンマクノイズの修道院の全盛期は7〜12世紀頃です。かつてはタラ(古代アイルランドの権威の称号)の王の埋葬地でもあったこの場所は、たびたびヴァイキングの襲撃を受け、12世紀中盤以降は徐々に衰退してしまったのだそうです。現在は、修道院跡や墓地跡の遺跡となっています。「クロンマクノイズ年代記」とは、先史時代から西暦1408年までのアイルランドの出来事が記録されています。原本は失われており、編纂者の名前は不明です。クロンマクノイズ修道院で収集された資料に基づいていると考えられるため、このように呼ばれています。
②一方、スコットランド説の場合は、スコットランド王室財務記録帳なるものに1494年に「王命により修道士ジョン・コーに8ボルのモルト(麦芽)を与えてアクアヴィテを造らしむ」(8ボルはボトル約500本分に相当)が最古の根拠であり、これは同時にウィスキーに関する最古の文献です。この修道士ジョン・コーが所属していたのがリンドーズ修道院であり、その修道院跡地で2017年に創業したのがリンドーズアビー蒸溜所です。曽祖父の代に手に入れたこの土地で代々農業を営んできた、創業者のドリュー・マッケンジー・スミス氏は、この場所がスコッチウイスキーにとって記念すべき場所である事を知り、蒸溜所の建設を決意しました。これにより、リンドーズアビー蒸溜所が、「スコッチウイスキー始まりの場所」と呼ばれることもあります。
■スコッチウイスキーの歴史
1506年、スコットランド王ジェームズ4世(1488~1513年)がスコッチウイスキーを好むと伝えられると、ダンディーの町は当時の生産を独占していた「Barber Surgeons」、ギルドの外科医からウイスキーを大量に購入しました。また1536年から1541年にかけて、イングランド王ヘンリー8世が修道院を解散すると、独立した修道士たちは自身の生活費を稼ぐためにウィスキーの製法を市井(しせい、庶民の意)に伝え、ウイスキーの生産は修道院から個人の家や農場へと移りました。
まだ製法が確立していなかったこの頃のウイスキーは、1707年(ウイスキー増税、合同法、イングランド王国とスコットランド王国が合併し、連合王国としてグレートブリテン王国を建国)~1823年の酒税法の改正(減税)まで100年以上、密造時代になります。樽による熟成の技法が確立するまで、他の穀物原料の蒸留酒(スピリッツ)と同じく熟成させるものではありませんでした。現代に知られるものと比べ、色は無色透明で、味はドライかつ荒々しかったです(現代でいうニューポット)。
■スコッチモルトウイスキーの始まり
1707年、合同法によってイングランドとスコットランドが合併(グレートブリテン王国の成立)すると、スコットランドの蒸溜所に最初の課税が行われます。これはスコットランドの酒造に不公平な重税であり、以降、さらに様々な名目で税金は釣り上がっていっきます。
1725年のイギリス麦芽税が施行される頃には、スコットランドの蒸溜所のほとんどは廃業するか、地下に潜って密造するようになります(密造時代)。密造業者らは、政府の徴税官や取締官の目から逃れるために、煙が見えなくなる夜にウィスキーの蒸留を行い、祭壇の下や棺の中など、様々な場所に樽に入れたウィスキーを隠しました。この頃のスコットランドのウイスキー生産量の半分以上は違法酒だったと推定されています。
この密造時代に、結果として樽での長期保管により、ウイスキーはマイルドなものとなり、また、樽(特にシェリー樽)の香りや風味が添加され、現代に知られる琥珀色を帯びるようになりました。以降、密造時代が終わりを迎えた後も、樽で熟成させるという工程がウイスキー製法の重要な要素となります。
1823年に酒税法改正によって税率が下げられると、これを受けて1824年以降、多くの政府公認の蒸溜所が誕生しました。政府公認の初の蒸溜所であるザ・グレンリベットの誕生から、政府公認第二号蒸留所のフェッターケアン蒸留所を始め、バルメナック蒸溜所、キャメロンブリッジ蒸溜所、カーデュ蒸溜所、マッカラン蒸溜所、ミルトンダフ蒸溜所などの蒸溜所が1824年に設立されました。
■グレーンウイスキーの始まり
1831年、アイルランド出身のイーニアス・コフィーはカフェ式蒸留(連続式蒸留器の一種)の特許を取得し、より安価で効率的なウイスキー蒸留を確立します。これによって、それまでのモルト・ウイスキーと異なるトウモロコシなどの穀類を原料とするグレーン・ウイスキーが製造されるようになります。
■ブレンデッドウイスキーの始まり
1850年、アンドリュー・アッシャーは、伝統的なポットスチル(単式蒸留器)によるウイスキー(モルト・ウイスキー)と新しいカフェ式の連続蒸留器によるウイスキー(グレーン・ウイスキー)を混ぜたブレンデッド・ウイスキーの生産を開始しました。この新しい蒸留方法は、伝統的なポットスチルを重視したアイルランドの蒸溜所では拒絶され一部蒸留所のみ採用に留まりました。また、多くのアイルランド人は、新たな製法によるウイスキーを、ウイスキーとは呼べないと非難しました(アイリッシュにとってウイスキーとはモルト・ウイスキーのみを指した)。一方でスコットランド(特にローランド)では広く採用され、1824年に操業開始したキャメロン・ブリッジ蒸留所は、1830年には連続式蒸留器を用いて世界で最初にグレーン・ウイスキーの生産を開始しました。ブレンデッド・ウイスキーの生産もスコットランドで活況を帯び、その万人好みの酒質から、それまでスコットランドの地酒扱いに過ぎなかったスコッチがイングランドなどの他地域でも飲まれるようになり、ブレンデッド・ウイスキーはスコッチの代名詞ともなります。
■ウイスキーの生産国による分類(5大ウイスキー)
5大ウイスキーは、地域によって、スコッチ、アメリカン、カナディアン、アイリッシュ、ジャパニーズに分類されます。別に記載してますが、近年、台湾やインドなどの新興勢力もあります。
■(1)スコッチウイスキー
■スコッチウイスキーの定義
産地であるスコットランドの法律(2009年に制定された「スコッチウイスキー規則(The Scotch Whisky Regulations 2009)」で下記の通り定められております。
①スコットランドの蒸留所で製造されている
②原料は大麦麦芽などの穀物、水、酵母のみを使用する
③アルコール度数94.8度以下で蒸留する
④容量700L以下のオーク樽で、3年以上熟成が必要
⑤瓶詰時のアルコール度数は40度以上
⑥添加物は水とカラメルのみ
■スコッチウイスキーの特徴
・現在では、一般に「スコッチ」という場合、「ブレンデッド」を指すことがほとんどです。
・世界で最も生産量が多いです。
・ザ・グレンリベットやグレンモーレンジィなど「グレン・・」と「グレン」がつく蒸留所が多いです。この「グレン」とはゲール語(ケルト系先住民族の言語)で「谷」という意味で、谷の周りに作られる蒸溜所が多いので、枕詞のようにグレンとついています。
・麦芽を乾燥させる際に使用するピート(泥炭)由来のスモーキーな香りが特徴です(ノンピートもあります)。「スモーキーなウイスキー」といわれることが多々ありますが、ウイスキーを語る上で重要なキーワードである「ピート(泥炭)」とは、ヒースというスコットランド北部の原野に多い野草や水生植物などが、炭化した泥炭(炭化のあまりすすんでいない石炭の一種)です。石炭の中では植物からの炭化度が少なく、見た目は湿地帯の表層などにある何の変哲もない普通の泥ですが、可燃物です。採取して乾かせば燃料として使用できる一方で、山火事の延焼要因ともなります。ピートはモルトウイスキーの香りを特徴づける重要な材料です。ピートの煙で麦芽を乾燥させ、その燻(いぶ)した香りが麦芽につくことによって、ウイスキー特有のスモーキーな香りが生まれます。
反対に、ノンピートモルトとは、原料の大麦を乾燥させて大麦麦芽にする工程の際に、ピート(泥炭)を使わず、熱風で乾燥させるため、ピート由来のスモーキーフレーバーのない大麦麦芽のことをいいます。
■スコットランド(スコッチ)のグレーンウイスキー
●スコットランドには、グレーンウイスキーの蒸溜所が7つあります(2023年現在)。モルトウイスキーの蒸溜所が128以上(2023年現在)もあることを考えると、実に対象的です。かつてスコットランドには30か所のグレーンウイスキー蒸溜所が存在していましたが、現在は各メーカーが1か所で集約的に生産するスタイルへと変わっています。
●モルトウイスキーの蒸溜所と対照的にグレーンウイスキー蒸溜所の数は減っていますが、ブレンデッドウイスキーの生産量は増え続けているため、グレーンウイスキーの需要は高まっており、生産量は増加傾向となっています。グレーンウイスキーの風味構成をつくりあげる要因は多く、原料となるグレーン(穀物)の種類、貯蔵に使うカスクの種類、熟成期間の長さなどによって、風味は大きく異なります。よって、グレーンウイスキーは、生産する蒸溜所ごとに特有のキャラクターを持っています。力強い風味から繊細な風味まで幅は広く、その間にさまざまなバリエーションがあります。このバリエーションの多彩さは本当に言い尽くせないほどで、スコッチブレンデッドウイスキーをつくるときに、重要なファクターとなります。よって、簡単に別のグレーンウイスキーで代用できることもないので、ディアジオ社、ペルノリカール社など、大手メーカーはグレーンウイスキーの蒸溜所を保有・提携しています。日本でもサントリーは、グレーンウイスキーとスピリッツを併設した日本最大の「知多蒸溜所」、実は、サントリーの「白州蒸溜所」にも規模は小さいながらも、グレーンウイスキーの蒸溜設備があり、グレーンウイスキーを製造しています。ニッカウヰスキーは、モルトとグレーンウイスキーの両方を併設した「宮城峡蒸溜所」、キリンは、モルトとグレーンウイスキーの両方を併設した「富士御殿場蒸留所」があります。やはり、大手メーカーはグレーンウイスキーの蒸溜所を保有しています。その他にも、クラフトグレーンウイスキーの「吉田電材蒸溜所」、木内酒造の「八郷蒸溜所」などがあります。「イチローズモルト」の名で有名な埼玉県秩父のベンチャーウイスキーも、北海道にグレーンウイスキーの蒸溜所を設立し、2025年春に製造を開始予定だそうです。もともとグレーンウイスキーはコーンを原料にしていましたが、1980年代になって多くの蒸溜所が小麦に変えました。このグレーン原料の選択や蒸溜方法が、ニューメイクスピリッツに与える影響が変わってきます。例えば、コーンは小麦よりも甘味が強いという特徴があります。そのような原料グレーンの特性を強調するような蒸溜法もあれば、なるべく特性が目立たないようにする蒸溜法もあります。同様に、蒸溜後のスピリッツのアルコール度数が高いほど(94.8%未満で取り出さなければならないという規則がある)無色透明のエタノールに近くなるので、スピリッツのキャラクターは軽めになります。さらにいえば、ニューメイクスピリッツの特性が軽ければ軽いほど、熟成後のグレーンウイスキーはカスクの影響を受けやすくなります。ニューメイクスピリッツ(ニューメイク、ニューポット、ニューボーンなど)は、熟成年数3年未満の無色透明の状態で、蒸溜直後のウイスキーになる前の「原点」です。一般的には商品化されていません。一部限定品であります。
●グレーンウイスキーが初めて製造されたのは、1824年にジョン・ヘイグによって設立されたローランド地方のファイフにある老舗のキャメロンブリッジ蒸溜所です。1831年にはイギリスで連続式蒸留器が開発されたことで、グレーンウイスキーはより安価で大量生産されることとなります。グレーンウイスキーはウイスキー特有のクセが少ないことから、ウイスキーとは認めないという意見も過去にはありましたが、モルト原酒とブレンドしたブレンデッドウイスキーの誕生によって時代と共に認められていきました。現在ではキャメロンブリッジはディアジオ帝国の生産力を支える、グレーンウイスキーの質と量、要ともいえる一番重要な任務を担っています。1920年代以降はグレーンウイスキーの生産に絞られ、1989年からはジンの生産も行なっています。
スコットランドのグレーンウイスキーの蒸留所
①ロッホローモンド蒸溜所(中国ファンド会社、ヒルハウス・キャピタルマネジメント社)
②キャメロンブリッジ蒸溜所(ディアジオ)
③ガーヴァン蒸溜所(ウィリアム・グラント&サンズ)
④インヴァーゴードン蒸溜所(インバーゴードン、ホワイト&マッカイ)
⑤ストラスクライド蒸溜所(シーバス・ブラザーズ、ペルノリカール)
⑥ノースブリティッシュ蒸溜所(エドリントン・グループとディアジオのジョイントベンチャー)
⑦スターロー蒸溜所(ラ・マルティニケーズ、2010年創立)
■スコットランド(スコッチ)のブレンデッドウイスキー
1860年にモルトとグレーンの混和が酒税法改正によって許可されたため、ブレンド技術を持つアッシャーはいち早く開発を進め、「Usher’s Blended Whisky」をリリースしました。アンドリュー・アッシャーはブレンデッドウイスキーの生みの親といわれています。また、ブレンデッドウイスキーのリリースなどで巨万の富を得たアッシャーは、1885年に創設されたノースブリティッシュ蒸留所(グレーン蒸留所)の初代社長に就任します。アッシャーが作り上げたブレンデッドウイスキーは、従来のウィスキーよりも飲みやすく安価なため、ロンドンの貴族や紳士階級に広がりました。19世紀後半から20世紀初めにかけて、アッシャーに続いてたくさんのブレンデッドウイスキーがリリースされていきました。今では、無数にあるといっても過言ではありません。
ボトラーとブレンデッドの異なる点は、主に下記です。
・ブレンデッド会社は、複数の蒸溜所と提携をして、継続的に原酒を購入し、ブレンデッドウイスキーとして販売します。
・それに対し、ボトラーは、基本的には、単発で、蒸溜所から原酒(樽)を購入して、その原酒をアレンジなどして、モルトウイスキーやブレンデッドウイスキーなどとして販売します。
■ビッグ5
ウイスキーについて調べていると、ウイスキー業界で「ビッグ5」という言葉を耳にすることがあります。
スコッチのブレンデッドウイスキーにおける五大ブランドのことで、世界にスコッチを広めたといわれている銘柄です。いずれも過去は、「DCL(ディスティラーズ社 Distillers Co.Ltd.)」に所属していました。
「ビッグ5」の銘柄は以下の通りです。
①ジョニーウォーカー
世界で最も名の通ったスコッチです。「ストライドマン」の絵柄と斜めに貼られたラベルが目を引きます。
1820年ジョン・ウォーカーによってブランド創立されました。
1925年DCL傘下となりました。
銘柄は、レッドラベル、ブラックラベル、グリーンラベル、ブルーラベル、スイングなど多くがあります。
②ホワイトホース
ラガヴーリンなどを中核としたスモーキーなブレンデッドです。ウイスキー用スクリューキャップを発明したことでも有名です。
1881年ピーター・マッキーによってブランド創立されました。
1927年DCL傘下となりました。
銘柄は、ホワイトホース12年、ホワイトホースファインオールド、ローガンなどがあります。
③ヘイグ
長い歴史を持つスコッチの名門でDCL創立メンバーのうちの一社です。
1655年にはすでに蒸留をしていたといわれています。
1824年創立のキャメロンブリッジ蒸溜所で世界で初めてグレーンウイスキーを生産しました。
1877年DCL創立に参加しました。
銘柄は、ヘイグゴールドラベル、ヘイグクラブマンシングルグレーン、ディンプル、ピンチ(ディンプルのアメリカ輸出専用ブランド)などがあります。
④デュワーズ
瓶詰めのウイスキーを最初に売り出したといわれています。特にアメリカで人気のブレンデッドです。
1846年ジョン・デュワーによってブランド創立されました。
1915年ブキャナン社と合併しました。
1925年DCL傘下となりました。
1998年バカルディ傘下となりました。
銘柄は、ホワイトラベル、アンセスター、ネプラスウルトラなどがあります。
⑤ブキャナン
「ウイスキー男爵」ジェームズ・ブキャナンのブランドです。創立やブレンドにはニッカの髭のおじさんこと「W・P・ローリー」が深く関わっています。「ニッカウヰスキーのラベル」の髭のおじさんの絵は、1965年、ブラックニッカのラベルで初めて使用され、その後も数種のニッカ製ウイスキーのラベルに印刷され続けています。この男性はウイスキー愛好家たちにはローリー卿と呼ばれ、17世紀の冒険家ウォルター・ローリーがモデルだといわれたりもしますが、2代目マスターブレンダーの竹鶴威(たけし)氏によれば、実際のモデルはよくわからないそうです。また別の説によれば、19世紀、ウイスキーのブレンドの重要性を説いたW・P・ローリーであるともいわれています。2024年現在のニッカウヰスキーのホームページでも、ブラックニッカのラベルは「W・P・ローリー」としています。竹鶴政孝は、スコットランド留学時にウイスキーにおける「ブレンドの重要性」を理解し、著書「ヒゲと勲章」にも記していますので、やはり、ブレンドの王様とも呼ばれる「W・P・ローリー」がモデルなのだろうと推測されます。「W・P・ローリー」は、グラスゴーを拠点とするウイスキー商人で、1897年に著名なブレンダーのジェイムズ・ブキャナンと手を組んでグレントファース蒸溜所(主にブレンド用モルト、現存)を設立し、後にコンバルモア蒸溜所(1985年閉鎖)を所有しました。ブレンダーの草分けを自称していましたが、一般的に最初のブレンダーはアンドリュー・アッシャーであるとされています。これらの蒸溜所は1907年にブキャナンが買い取りました。ローリー卿は、香りの効き分けが得意であったとされるウイスキーブレンドの名人で、「ウイスキーのブレンドの重要性」を説き、「キング・オブ・ブレンダーズ(ブレンドの王様)」と呼ばれていました。
1884年ブランドが創立されました。
1915年デュワーズ社と合併しました。
1925年DCL傘下となりました。
銘柄は、ブラック&ホワイト、ブキャナンズ、ロイヤルハウスホールドなどがあります。
代表的な銘柄(無数にあります、ビッグ5以外の代表的なビッグブランド)
・バランタイン
・オールドパー
・シーバスリーガル
・ベル
・ティーチャーズ
・モンキーショルダー
■スコットランド(スコッチ)のシングルモルトウイスキー
シングルモルトスコッチウイスキーは、その地域によって、ハイランドモルト、スペイサイドモルト、ローランドモルト、キャンベルタウンモルト、アイラモルト、アイランズモルトの6つに分類されます。一応、「モルト」ウイスキーの視点で整理してます。下記では、それぞれの特色と代表的な蒸留所などに触れておきます。
①ハイランドモルトウイスキー
ハイランドは、スコットランドの北側の大部分を占めます。広大な敷地に比例して、スコットランドの蒸留所のうち約4割の蒸留所がハイランドに集まっており、東西南北4つの地域に分類されています。スペイサイド・アイランズを切り離して区分けされたのは近年のことです。ちなみに映画ハリーポッターに出てくる「ホグワーツ魔法魔術学校」がある地方としても知られています。4つのエリア内でも個性の際立った特徴がみられます。
4つのエリアの代表的な蒸留所
◎東ハイランド(約12)
●アードモ
●フェッターケアン
●グレンギリー
●グレンドロナック
●ロイヤルロッホナガー
●グレンギリー
◎西ハイランド(約4)
●オーバン
●ベンネヴィス
●アードナムルッカン(2014創業)
●ノックニーアン(2017創業)
●グレンロッキー(1983閉鎖)
◎南ハイランド(約10)
●アバフェルディ
●エドラダワー
●グレンゴイン
●グレンタレット
●タリバーディン
●ブレアアソール
●ロッホローモンド
◎北ハイランド(約20)
●プルトニー
●クライヌリッシュ
●グレンモーレンジィ
●ダルウィニー
●ダルモア
●トマーティン
●バルブレア
●ロイヤルブラックラ
●ティーニニック
●ウルフバーン
●スペイサイド(蒸留所名は「スペイサイド」ですが,地理区分的には北ハイランド)
●ブローラ(再開予定)
②スペイサイドモルトウイスキー
スペイサイドは、ハイランド地方北東部のスペイ川流域の東京都ほどの小さなエリアですが、スコッチにとって重要なエリアのため、独立して「スペイサイドのウイスキー」と言われます。もともとハイランドの一部として紹介されていましたが、近年、スコットランドの全蒸溜所のおよそ半分、50あまりの蒸溜所がこのスペイ川流域に集中しているため、蒸溜所が多すぎて分けてカウントされるようになりました。この地域は、1707年から1823年の酒税法改正まで「密造時代」になります。谷が多く緑の溢れる地域で地理的に隠れやすかったスペイサイドが密造の場所として選ばれました。この出来事がきっかけでウイスキーの貯蔵に樽を用いることや、大麦麦芽の乾燥にピートを使用することが始まったとされています。政府から逃れるためにとった行動が、現在のウイスキーにとって重要な基盤になっています。スペイサイドの蒸留所は「グレン(=谷)」がつくものが多いことからも谷が多い地域であることがうかがえます。近年では、「ローズアイル(ロザイル)蒸溜所」が稼働し始めています。グレンフィディックやグレンリベットに伍(ご、肩を並べるの意)する超大規模の最新鋭蒸留所で、年間アルコール生産量は1,000万リットル、DIAGEO社が4,000万ポンドの巨費を投じて2010年に建造されました。ローズアイル蒸留所の原酒はDIAGEO社のブレンド用の供給がメインですが、2023年には、海外でシングルモルト(熟成年数12年)が発売されました。
代表的な蒸溜所(約50)
●ザ・グレンリベット
●グレンフィディック
●マッカラン
●グレンファークラス
●オルトモア
●グレングラント
●インチガワ―
●ロングモーン
●ローズアイル
■ザ・グレンリベット蒸溜所
グレンリベット蒸溜所は、スコットランドにあるウイスキー蒸溜所です。スペイサイドのマレーに位置し、シングルモルトを生産しています。蒸溜所名は地名から「Glen(谷)」と「livet(リベット川)」で「リベットの谷」の意です。グレンリベット行政区で最古の政府公認蒸溜所であり、蒸溜所と同じ名前のザ・グレンリベットを、自社で生産するスコッチ・ウイスキーのブランド名としています。「すべてのシングルモルトはここから始まった」のうたい文句でも知られています。蒸溜所の創立は1824年のことで、以来ほぼ切れ目なく操業が続けられてきました。世界恐慌のさなかにも操業が続けられていましたが、唯一第二次世界大戦のときだけ操業を停止したことがあります。第二次世界大戦後にグレンリベット蒸溜所は、世界各国の需要に応える世界最大のシングルモルト蒸溜所の一つとなりました。同じスペイサイド地区ダフタウンにあるウィリアム・グラント&サンズにより所有、製造されているグレンフィディック蒸溜所のシングルモルトウイスキー「グレフィディック」とシングルモルトウイスキーの売上世界1番、2番を競っています。
2007年時点では、グレンリベット蒸留所はフランスのアルコール飲料会社ペルノ・リカールが所有しており、この多くがシングルモルト「ザ・グレンリベット」として流通している他、ペルノ・リカール社が生産しているシーバス・リーガルやロイヤル・サリュートなどのブレンド・ウイスキーのモルト原酒として使用されています。
中世のスペイサイド地方には密造酒業者が多かったのですが、1823年に酒税法が改正されるとその数は減少していきました。新たな酒税法のもとで、政府が許可証を発行する公認の蒸留所が制定されることになりました。第4代ゴードン公爵アレクサンダー は、この酒税法の改正に尽力した人物だとされています。アレクサンダーが酒税法改正に関係したという公式記録は残っていませんが、アレクサンダーの借地人だった「ジョージ・スミス」が経営する密造酒蒸溜所が、グレンリベット渓谷で最初の政府公認蒸溜所に指定されたという記録があります。この酒税法改正は評判が悪く、当時の密造酒業者のほとんどが新たな酒税法の撤回を望んでいました。そのため、この酒税法を受け入れて政府公認蒸溜所に指定される業者は、他業者から恨まれて攻撃の的となりました。最初の政府公認を受けたスミスに対する反感が高まり始めたため、アレクサンダーの息子のジョージ・ゴードンがスミスと蒸溜所の安全のために2丁の拳銃を貸与しているほどでした。ジョージ・スミスとその末子ジョン・ゴードン・スミスがグレンリベット蒸留所を創立したのは1924年のことです。
ジョージ・スミスのウイスキー蒸溜所は、1824年にスぺイサイド地方リベット渓谷で最初に蒸留ライセンスを取得した蒸溜所となりました。 当時、名声を得ていたウイスキーの品質は変わることなく、ジョージ・スミスのウイスキーは合法的に「グレンリベット」として生まれ変わり、そのウイスキーの名前は世界的に知られていくこととなります。しかし、当時スコットランドにあふれていた密造者たちはジョージ・スミスのひとりだけが政府公認の蒸溜所となったことをよく思っておらず、彼を裏切り者と決めつけ、絶えず命を狙うようになりました。そんな中、ジョージ・スミスの行動が間違っていなかったことが証明され、政府の規制も徐々に和らいでいき、スコットランド内での公認の蒸溜所も増えていきました。このように、ジョージ・スミスのウイスキーがスコッチウイスキーの歴史を切り開いたのです。しかし、同時にその品質の高さと英国政府の公認第一号のスコッチウイスキーの名声にあやかろうと他の蒸溜所が競い合うように「グレンリベット」の名前を自分たちのウイスキーの名前に使用するようになっていきます。こういった模倣者たちは、「グレンリベット」の名前を使用するだけに留まらず、「ジョージ・スミスのウイスキー」のスタイルそのものの模倣まで試みました。例えば、ダフタウン蒸溜所は、1895年に「ダフタウン・グレンリベット蒸溜所」として創業しており、「ダフタウン・グレンリベット」と名のついたボトルも発売されています。また、1826年に設立された「アベラワー蒸溜所」も1990年代前半頃まで、「アベラワー・グレンリベット」とボトル表記をしていました。
そんな状況の中、ジョージ・スミスは自分のスタイルのウイスキーを守るために裁判所に提訴することを決意したのです。その争いは長い年月を要しましたが、1884年、息子のジョン・ゴードン・スミスの時代についに判決が下り、「ジョージ・スミスのウイスキー」だけが本物の証拠である定冠詞の「THE」をつけることが認められ、唯一無二の本物の「THE GLENLIVET」となりました。
このようにして、創業者ジョージ・スミスの卓越したウイスキー造りの技術と情熱、パイオニア・スピリッツによって生まれた、傑出したスコッチ・ウイスキー「THE GLENLIVET」は、現在もジョージ・スミスの残したすべての技術と精神を頑なに守り、受け継ぎながら製造されています。
■マッカラン蒸溜所
マッカラン蒸溜所は、スコットランド北東のマレー地方クライゲラヒーにあるシングル モルト スコッチ ウイスキー蒸溜所です。ザ マッカラン ディスティラーズ リミテッドはエドリントンの完全子会社です。
イギリスが誇るハロッズ百貨店の「ウイスキー読本」で、シングルモルトのロールスロイスと称される、「ザ・マッカラン」です。サントリーの宣伝文句ではなかったようです。
スコットランドのハイランド地区では「ザ・グレンリベット」に次いで2番目に政府認定を受け誕生したのが「ザ・マッカラン蒸溜所」です。ブレンド用モルトウイスキーの製造が主体だったマッカランは継続的な設備の拡張と、独自のブランド戦略により「スコッチのロールスロイス」と称される程のウイスキーのラグジュアリーブランドに上り詰めました。
1824年に、地方の農家であった「アレクサンダー・リード」によりマッカラン蒸溜所が創業されました。マッカラン蒸溜所は、19世紀中に数名の手を経ていますが、1892年にマッカラン蒸溜所を購入して経営に当たった「ロデリック・ケンプ」は近代のマッカランの祖といわれています。「ロデリック・ケンプ」は、1880年代に「タリスカー蒸溜所」を所有(現在は、ディアジオ)していました。
1996年に「ハイランド・ディスティラリーズ(現エドリントン)」が買収しました。
エドリントンは、1999年に「ハイランド・ディスティラーズ」からブランドを購入しました。「ハイランド・ディスティラーズ」は1887年にロバートソン家によって設立されました。1970年にハイランド・ディスティラーズは、フェイマスグラウス・ブレンデッドウイスキーの生産者であるマシューグラグ&サンを買収し、1996年にはスペイサイドのシングルモルトスコッチ生産者であるザ・マッカランを買収しました。ハイランド・ディスティラーズは、ハイランドパークブランドのウイスキーも生産しました。ハイランド・ディスティラーズは1999年にエドリントングループに買収されました。ウィリアムグラント&サンズとエドリントングループは、2000年にハイランド・ディスティラーズを買収しました。
「エドリントン」は、1961年設立のスコットランドのグラスゴーに拠点を置く私有(ロバートソン姉妹)の国際的な蒸溜酒会社です。ザ・マッカラン、ハイランド・パーク、ザ・グレンロセス、ネイキッド・モルト、ザ・フェイマス・グラウスなどのシングルモルト・ブレンデッド・スコッチ・ウイスキーを生産しています。蒸溜酒のポートフォリオ(製品構成)には、ケンタッキー州インディペンデンスのノーブルオークバーボンや、カリブ海を代表するゴールデン ラム酒であるブルーガルも含まれています。また、ワイオミング州カービーで製造されるアメリカンウイスキーであるワイオミングウイスキーと、第3位のロンドンドライジンの株式も所有しています。[3]
グラスゴーに本拠を置き、世界中で全額出資および合弁事業で約 2,500 名を雇用しています。約 1,000 人の従業員がスコットランドに拠点を置いています。
サントリーホールディングスは、2020年に「エドリントン社」に10%出資する契約を締結しました。
ザ・マッカランは一般に、グレンフィディック、そして一部の説ではグレンリベットに次いで、2番目または3番目に売れているシングルモルトスコッチであると考えられています。[3] [4]
当初、ザ・マッカランはスペインのヘレス・デ・ラ・フロンテーラから蒸留所に持ち込まれたオークシェリー樽のみで熟成されていました。 2004年からザ・マッカランは、シェリー樽だけでなくバーボンオーク樽でもまろやかにしたウイスキーを含む新たな主力製品「ファインオークシリーズ」を導入した。 [5] 2018年に、ファインオークシリーズはトリプルカスクマチュアードシリーズに名前が変更されました。
③ローランドモルトウイスキー
ローランドは、スコットランドの南側、イングランドのすぐ真上に位置します。首都エジンバラやグラスゴーなどの主要都市が存在し、全人口の80%が集中しています。
●かつては北のハイランドモルトと激しい競争を繰り広げ、数十の蒸溜所を擁していましたが徐々に衰退し今に至ります。
●非常に多くのグレーンウイスキー蒸溜所があります。1689年~1788年までの100年間で、スコットランドで建設された蒸溜所は31でした。そのうちローランドが25、ハイランドが5、アイラが1と完全なローランドの天下無双状態でした。当時、スコッチウイスキーの90%はローランドでつくられているといわれるほどでした。
●1707年、スコットランドとイングランドが合併(グレートブリテン連合王国の成立)すると、産業の要だったウイスキーへの課税が跳ね上がります。ハイランド地方(スペイサイド含む)の蒸溜業者はこの重税から逃れるため、密造という方法をとります。しかしローランド地方はエジンバラやグラスゴーといった大都市を擁しており、酒税を取り締まる役人の目が届きやすかったため、ハイランドやスペイサイドのようにウイスキーを密造するわけにはいきませんでした。しかしこのままでは税金が高すぎてウイスキーを作り続けられないため、ローランド地方の蒸溜所は、大麦に比べて安価な穀物(トウモロコシなど)を使ったウイスキーを作り始めます。これがグレーンウイスキーの始まりといわれます。
●しかし、グレーンウイスキーは無個性で風味がなく、品質が低かったので、単体で飲まれることはほとんどありませんでした。この頃は、ブレンデッドの技術もありませんでした。実際、モルトとグレーンの混和が酒税法改正によって許可されたのは、100年近くあとの1860年です。そのため次々と蒸溜所が閉鎖されていったのです。ちなみに、ローランドで作られたグレーンウイスキーはそのまま飲まれたものはごく一部で、蒸溜後はロンドンなどにジンの材料として輸出することが多かったようです。
●しかし、1784年にいわゆる「ウォッシュ(もろみ)法」が成立すると、この法律がローランドでのウイスキー造りを加速させる一因になりました。ウォッシュ法とは、イングランド及びローランドを対象とした税制で、優遇措置でした。当時、ウイスキー製造にかかる税金はスチルの容量に対して課税されていました。よって、効率よくウイスキーを造ろうとして大きなスチルにすると多額の税金を支払う必要があった訳です。しかし、ウォッシュ法はウォッシュの生産量、つまり出来上がった量に対してのみ課税するという法律です。当たり前ですが、税金が安価な分、ウォッシュ法の対象外の税金の高いハイランド地方で作るよりも断然有利になります。この法律の境界線がハイランドラインと呼ばれるようになりました。その後ローランドの蒸留所は100カ所を超えるまでになりましたが、1831年連続式蒸留器が発明されると徐々に手間のかかるモルトウイスキーから効率よく製造できるグレーンウイスキーへと変わっていきました。
しかし、1898年のパティソン事件(ウイスキーの信用・信頼をなくす詐欺事件)、1920年~1933年のアメリカ禁酒法時代、1939年~1945年の第二次世界大戦などの影響を受けた20世紀ウイスキー不遇の時代には、次々と蒸留所が閉鎖され、一時期は、オーヘントッシャンとグレンキンチ―の2つの蒸留所だけになってしまいました。ブラッドノックは、1938年~1956年と1993年~1999年と2回閉鎖と買収を繰り返し、2000年に再開しています。2015年~2017年にも買収と改修のため休業となります。2023年時点では、ローランド地方には、オーヘントッシャン、ブラッドノック、ダフトミル、グレンキンチーなどの蒸留所が稼働しています。また、閉鎖蒸留所では、有名なローズバンクがあります。1773年創業で1993年閉鎖です。創業初期は「キャメロン蒸留所(キャメロンブリッジとは別)」でしたが、1840年にローズバンクになりました。ローランドモルトの中でも評価が高く、閉鎖された今でも非常に人気です。2019年より新ローズバンク蒸留所の建設中で、「ローズバンク蒸溜所で最初の樽が充填された」との情報もあります。蒸留所から最初のウイスキーが発売されるまでは数年待たなければなりませんが、その間、蒸溜所では1993年の閉鎖前に製造されたボトルが販売されています。高価ですが。1度は廃れたかに見えたローランドですが、近年はウイスキーブームの後押しもあり蒸留所の再建・建設が相次いでいる注目の地域です。このように、モルトウイスキーの蒸留所は一時は廃れましたが、グレーンウイスキーの蒸留所の多くがローランドにあります。。
グレーンウイスキー蒸留所に加えて、モルトウイスキーの新蒸留所が増え、ローズバンクの復活と、ローランドが再び力強く復活しています。
代表的な蒸溜所(モルト)(約30)
●オーヘントッシャン
●グレンキンチー
●ブラドノック
●ダフトミル(2005)
●リンドーズアビー
●レディバンク(2003、会員制)、
●キングスバーンズ(2014)
●グラスゴー(2012)
●アナンデール(2014)
●アイルサベイ(ガーヴァンの敷地内、2007、グレーン、モルト)
●ローズバンク(再開予定)
代表的な蒸溜所(グレーン)(約5)
●キャメロンブリッジ
●ガーヴァン
●スターロー
●ストラスクライド
●ノースブリティッシュ
下記の2ヶ所を除けば、グレーンウイスキー蒸留所は、ほぼ、このローランドに集中していることになります。
●ロッホローモンド
南ハイランドに分類されますが、ローランドとの境界にあります。
●インヴァーゴードン(インバーゴードン)
ハイランド地方にある比較的新しい1960年に設立された新しい大規模な蒸留所
④キャンベルタウンモルトウイスキー
キャンベルタウンは、他と比べて小さいエリアですがスコッチを語る上では欠かせない場所です。キャンベルタウンはスコットランドの南西、キンタイア半島の端っこにひっそりとある港町です。「アーガイル地方」といい、セーターやベストのデザインで定番の、この地に住む氏族が身につけた民族衣装に多く用いられた柄・模様「アーガイル柄」の語源ともなっています。キャンベルタウンの名前はこの地方の氏族だったキャンベル家(キャンベル・オブ・アーガイル)にちなんでいるとされています。キャンベルタウンは100年ほど前までは世界のウイスキーの首都とまで呼ばれていました。1925年に閉鎖したヘーゼルバーン蒸溜所(現スプリングバンク)で1920年に竹鶴政孝が研修で滞在したこともあります。しかしその後ウイスキー産業は衰退し、現在では3つの蒸溜所、5種類のウイスキー銘柄がつくられています。ウイスキー蒸溜所はスプリングバンク蒸溜所、グレンスコシア蒸溜所、そして2004年に80年ぶりに再オープンしたスプリングバンク第2の蒸溜所ともいわれるグレンガイル蒸溜所(キルケラン)の3つです。スプリングバンク蒸留所は、スプリングバンク、ヘーゼルバーン、ロングロウの3ブランドがあります。キルケランも加えられる場合もあります。ヘーゼルバーンは、スプリングバンク蒸溜所が1997年からその名を冠して生産しています。「グレンガイル」という名前の使用権は、同じ町にあるグレンスコシア蒸留所にあるため、グレンガイルが生産するシングルモルトは商標の問題で「キルケラン」という名前で販売されています。グレンスコシア蒸溜所は、2014年にはロッホローモンド社がオーナーとなりました。スプリングバンク蒸溜所のオーナーの兄弟喧嘩の結果、1872年に設立されたグレンガイル蒸溜所は、1925年についに生産が停止しました。グレンガイルが生産を停止してから75年後の2000年、創設者ウィリアム・ミッチェルの甥であり、現スプリングバンク蒸溜所のオーナーであるヘドレー・ライト氏が蒸溜所を買い取り、改修が開始され2004年にグレンガイルは生産を再開しました。
スコッチの生産地区分は、古くはハイランド、ローランド、アイラ、キャンベルタウンの4つに分類されてきました。今ではそれにスペイサイド、アイランズを加えて6地区とするのが一般的ですが、1990年代後半から2000年代初めにかけ、キャンベルタウンを生産地区分から外すという動きが生じました。スコッチウイスキー協会、通称SWAがいい出したことで、理由はキャンベルタウンには2つの蒸溜所しかなく、生産地呼称の要件を満たしていないということでした。それに猛烈に異を唱えたのが、スプリングバンク蒸溜所のオーナーであるミッチェル家のヘドレー・ライト氏でした。氏の言い分は、「2つで足りないというなら、3つに増やすまで。ローランドにはオーヘントッシャンとグレンキンチ―、ブラッドノックの3つしかないが、そのローランドを残してキャンベルタウンを廃止するというなら、俺がキャンベルタウンにもう1つ蒸留所をオープンする」です。そのライト氏の言葉どおり、キャンベルタウン第3の蒸溜所となるグレンガイル蒸溜所が2004年にオープンしました。もともとこの蒸溜所は1872年に創業した古い蒸溜所で、創業者はライト氏の先祖にあたる人物でした。1926年の閉鎖以来、持ち主は転々としたが建物は残っていました。それをミッチェル家が買い取り2004年に再オープンしました。ただし蒸溜設備は何も残っていなかったので、すべて新しく導入しました。スチルだけはインバーゴードンのベンウィヴィス蒸溜所(1976年解体、11年間の操業のみ)の中古を買ってきましたが、それ以外は新調です。ベンウィヴィスのスチルにこだわったのは、当時バンクの所長を務めていたフランク・マクハーディ氏が、若い時勤めていた蒸溜所だったからでした。生産はスプリングバンクの職人たちが兼務していて、9月から12月の4ヵ月くらいしか操業していませんが、全世界にファンがいます。グレンガイルというブランド名は他社が持っているため、シングルモルトはキルケランという名前で出ています。
代表的な蒸溜所(約3)
●スプリングバンク(スプリングバンク、ヘーゼルバーン、ロングロウ)
●グレンガイル(キルケラン)
●グレンスコシア
⑤アイラモルトウイスキー
アイラモルトウイスキーは、アイラ島で造られるウイスキーです。アイラ島は、スコットランド海岸から約27km、原始的な自然に囲まれた人口わずか3,000人の小島です。荒々しい波が打ち寄せる島は、面積の4分の1程度が泥炭(ピート)に覆われています。最大の特徴は口の中で燻(いぶ)されているかのようなスモーキーフレーバーです。このヨード臭(薬品のような臭い)やピート香(スモーキーな香り)に誘われて、世界中から観光客が訪れます。世間では「薬臭いウイスキー」、「アレを飲まなきゃウイスキー通とは言えない」と愛をこめて批評されています。このアイラ地方には年間10万人以上の人々が訪れ、スペイサイドと並ぶ「スコッチの聖地」と呼ばれています。
代表的な蒸溜所(約11、ビッグネームばかり)
●ブナハーブン
●アードベッグ
●ボウモア
●ブルックラディ(ブルイックラディ)
●カリラ
●ラガヴーリン
●ラフロイグ
●キルホーマン
●アードナッホー(2019)
●ポーティントゥアン蒸溜所(ポートナトゥルアン、ポートナーチュラン、2024予定)
●ポートエレン(再開予定)
⑥アイランズモルトウイスキー
アイランズモルトウイスキーは、スコットランド北部周辺の島々で造られるウイスキーです。この島々は、もともとハイランドの中に含まれていましたが、近年スペイサイド地方と同じように分類されました。アイラ島を除いたスコットランドの北岸から西岸にかけて点在する島々を指します。地理的にはこの島々のエリアにアイラ島も入りますが、アイラ島のモルトはその個性の強さから、アイランズとは別に、独立して区分けされます。各島に存在します蒸溜所の個性が強く、多彩なウイスキーの種類が存在します。スコットランドの北西側を半分を囲む感じで、約800の島々が点在しますが、現在蒸溜所の存在するオークニー諸島(メインランド島)、ルイス島(ハリス島)、スカイ島、マル島、ジュラ島、アラン島、ラッセイ島などを指します。
代表的な蒸溜所(約14)
●ハイランドパーク(メインランド島)
●スキャパ(メインランド島)
●タリスカー(スカイ島)
●ジュラ(アイルオブジュラ、ジュラ島)
●トバモリー(マル島)
●アラン(アイルオブアラン、ロックランザ、アラン島ロックランザ)
●アビンジャラク(ルイス島)
●ラグ(アラン島)
●アイルオブハリス(ハリス島)
●トーレベイク(トラペイグ、スカイ島)
●アイルオブラッセイ(ラッセイ島、2014)
(2)アメリカンウイスキー
アメリカンウイスキーは、アメリカで造られるウイスキーの総称です。
ケンタッキー州を中心に作られているバーボンウイスキー(ケンタッキーバーボン)とテネシー州で作られているテネシーウイスキーが有名です。近年では、温暖な気候のワシントン州・オレゴン州などのアメリカンシングルモルトが注目を集めています。
■アメリカンウイスキー始まり
もともとアメリカにウイスキーの蒸溜技術をもたらしたのは、17世紀後半~18世紀にかけて東海岸に入植したヨーロッパやスコットランド、アイルランドからの移民たちです。アメリカでは、アメリカ独立戦争(1775~1783年)の間、通貨の代わりとしてウィスキーが取引されていたことがあります。初代アメリカ大統領であるジョージ・ワシントンも、1797年の大統領辞任後にマウントバーノン(ワシントンDC25km、ワシントンの邸宅)で大規模な蒸溜所(ジョージワシントンズ蒸溜所、マウントバーノン蒸溜所、1814火災消失、2007再建、稼働中)を運営していました。現在は、歴史的な邸宅として有料公開されており、観光地としても有名です。そして、現在でもジョージワシントンが愛したライウイスキーを造っています。ただ、毎年4,000本~5,000本と少なく、マウントバーノン蒸溜所とワシントン私邸宅のギフトショップのみでの販売のようで、一般市場にはあまり流通していないようです。イギリス植民地時代のアメリカにおいては、イギリスとの距離や大陸内での貧弱な輸送インフラを考えると、アイルランドやスコットランドからの入植者たちは自分たちでライ麦などを原料にしたウィスキーを製造し、自分たちの市場に送る方が有益だと考えるようになります(アメリカンウイスキーの始まり)。こうして、アメリカ東海岸に植民したスコットランド人やアイルランド人がウイスキーの蒸溜を開始しました。同時に、当時のウィスキーは非常に需要の高い物品であり、1791年に追加の酒税が課されると、ウィスキー税反乱が起こりました。これは最終的に鎮圧されますが、課税を逃れるために、当時はアメリカ合衆国連邦政府の管轄外であったケンタッキーやテネシーに作り手たちは移住し、当地で採れるトウモロコシを原料としたバーボンが生産されるようになります。
その後、アメリカが東部から西へ西へと開拓(西部開拓時代、1860年頃から1890年頃)を進めていったように、アメリカにおけるウイスキー造りも原料や製法などを独自に開拓していき、自らのアイデンティティを確立していきました。アメリカンウイスキーには、そんなフロンティアスピリッツ(開拓者精神)が宿っています。
アメリカンウイスキーは連邦アルコール法で、原料の比率や製法の違いにより以下の5種類に分類されています。アメリカンウイスキーの代名詞にもなっている「バーボン」もそのうちの1種です。
■バーボンウイスキー
アメリカのケンタッキー州やテネシー州を始めとして、アメリカ全土で造られているウイスキーです。歴史を遡(さかのぼ)ると、もともとアメリカにやってきたスコットランドやアイルランドからの移民たちは、西欧に近いアメリカ東部のペンシルヴェニア州やヴァージニア州など寒冷な気候でも育つライ麦でウイスキーを造っていました。しかしアメリカ独立戦争終結後の1791年に、ジョージ・ワシントン政権が財政立て直しのためウイスキー税を導入し、これに反発した農民たちは西方のケンタッキー州やテネシー州など政府の目の届かないところに移り、その土地で収穫しやすいトウモロコシでウイスキー造りを開始、このことがバーボンウイスキーの誕生につながりました。ちなみに、バーボンという名前の由来となったケンタッキー州「バーボン郡」とフランス「ブルボン王朝」は同じBOURBONという綴りですが、これは偶然の一致ではありません。イギリス本国との間で起きたアメリカ独立戦争の際、当時ブルボン王朝だったフランスがアメリカ側を支援したため、その感謝の印としてケンタッキー州に「ブルボン(英語読みバーボン)郡」として地名を残すことになりました。ブルボン朝(ルイ朝)は、ヴェルサイユ宮殿の建設などで有名なルイ14世のお爺さんのアンリ4世に始まる近世フランス王国の王朝です。アメリカの独立戦争の際に支援をしてくれたブルボン朝への感謝の意を表現しています。アメリカの独立は、フランスの参戦が大きかったのだと思います。ただ、この頃は、「第2次百年戦争」で、フランスは、その頃目の敵にしていたイギリスに対抗して参戦したのだと思いますので、アメリカのためではなかったようにも思います。
■アメリカ禁酒法時代
アメリカンウイスキーにとって避けて通れないのは、1920年代の悪名高い「禁酒法」の時代(1920~1933)です。酒により社会の乱れが見え始めると、飲酒に批判的な考えを持つ敬虔(けいけん、信仰心が強い)なピューリタン(極度に真面目な人、清教徒、改革派新教徒・プロテスタント)たちが中心となって禁酒運動を開始しました。もともと宗教的・道徳的な精神を重んじるアメリカの法律ですが、1920年にはついに憲法でアルコール飲料の製造・販売・輸送が禁止され、ケンタッキー州のバーボン蒸溜所の半分が廃業に追いやられました。国内で全てのアルコール販売は禁止されました。しかし、連邦政府は、医者によって処方されたウイスキーは例外とし、認可薬局で売られることとなりました。この間に、現在も10,000店以上を展開するアメリカを代表する薬局のチェーン店であるウォルグリーンの薬局チェーンは、20店から約400店に増えました。また、この禁酒法によってアメリカンは元より、主要輸出元であったスコッチやアイリッシュも大打撃を被る一方、それまで粗悪品の代名詞であった隣国カナダのカナディアンが密輸などで活性化しました。また、この禁酒法の誕生により、自由を愛するアメリカ国民たちはかえって密造された酒(ムーンシャイン)を飲むようになります。これまでグラス1杯のワインを嗜む程度だった人までもが、強い蒸留酒に手を伸ばすようになったのです。結果として、政府は税収を失う一方、ずる賢いギャングたちが密造酒の製造と密輸で巨万の富を得るようになると、禁酒法は明らかに失策とされ1933年に撤廃されました。アメリカ国民は、酒場でウイスキーを楽しむ喜びを取り戻しました。
■バーボンの始まり
バーボンの始まりはアメリカの建国と同じ1789年まで遡ります。所説ありますが、有名な説に触れておきます。
当時のウィスキーは、農家の軒先や納屋に置いたごく小さな蒸溜器で造る簡単で素朴なものでしたが、1785年ジョージタウンにやって来たエライジャ・クレイグ牧師は、副業でウィスキー造りに励み、そのために蒸溜所として丸太小屋を建てました。そのときに考案したのがトウモロコシに大麦とライ麦をミックスして火にかけ、糖分を抽出して水を混ぜ、リンゴとプラムを入れて熟成させたのちに蒸溜するというものでした。エライジャ・クレイグ牧師は、蒸溜したウィスキーを、内側の焼けた樽に入れたまま丸太小屋に置き忘れたままにし、3〜4年後に開けてみると、焦げたオークのために赤味がかった芳醇な液体が現れた、というのがバーボンの始まりという説が有力です。このことから、クレイグ牧師は「バーボンの父」と呼ばれるようになります。
「バーボン」という名前は、この時初めて造られたバーボンウイスキーがケンタッキー州のバーボン郡で造られたことに由来します。「バーボン」が生まれたのはケンタッキー州のバーボン郡ですが、バーボンには特に生産地の規定があるわけではなく、バーボンの原料比率と製法を守ったウイスキーは「バーボンウイスキー」と名乗ることができます。
■バーボンの広まった要因
この地域でバーボンが造られるようになった理由は2つあります
●①バーボン造りに重要なトウモロコシ、良質な水、オーク樽が揃っていたこと
●②移民と共にウイスキーの蒸溜技術がやってきたこと
こうした条件もあり、バーボンの製造は広がっていくようになりました。
バーボンの醸造が始まる少し前、1775年から1783年にかけては、「アメリカ独立戦争」がありました。アメリカ東部の13の州がイギリスからの独立を目指して戦い、勝利を納めたことによりアメリカ合衆国は独立することとなります。
独立したアメリカ合衆国は、戦争によって生じた負債を返却するため、1791年から国内で生産物にたいしての税金をかけはじめます。その課税は国内で生産された蒸溜酒にまで及び、ウイスキーももちろん対象となります。(当時の蒸溜酒のほとんどがウイスキーであったため、「ウイスキー税」と呼ばれました。)
ウイスキーは主に西部開拓民の農家によって作られており、彼らの重要な副収入となっていました。そのため、西部開拓民は課税に猛反発をし、反乱を起こします。これは「ウイスキー・レベリオン(反乱の意、Whisky Rebellion)」と呼ばれています。ウイスキー・レベリオンは課税が開始された1791年から1794年にかけて起きました。ウイスキー・レベリオンのなかで、一部の住民達は反乱に加わらず、アメリカ合衆国の国外に逃亡しました。当時のケンタッキー州やテネシー州はアメリカ合衆国に属していなかったため、ウイスキー造りに知見や経験のある移民が増えました。ウイスキー・レベリオンによって移民が増えたことにより、ケンタッキー州やテネシー州でのウイスキー造りは勢いを増しました。当時はまだアメリカ領ではなかったこれらの地に移住し、その地の名産品であるトウモロコシでウイスキー造りを始めたことが、バーボンの起源とされています。
ケンタッキー州は1792年、テネシー州は1796年にアメリカ合衆国の州となっています。
■バーボンウイスキーの代表的な銘柄
アーリータイムズ
I.W.ハーパー
ジム・ビーム
フォア・ローゼズ
メーカーズマーク
ワイルドターキー
エライジャ・クレイグ(ヘヴンヒル蒸溜所)
ウッドフォードリザーブ
オールド・クロウ
※「エライジャ・クレイグ」の名は現在ヘヴンヒル社が販売するケンタッキーのストレートバーボンウイスキーのブランドとして使用されています。宣伝のためにブランド名に使用しており、先述の「エライジャ・クレイグ」の設立した蒸溜所ではありません。ヘヴンヒルは、他にも、有名なエヴァンウィリアムズ、ファイティングコック、ヘブンヒル、ヘンリー マッケンナ、JTSブラウン、オールドフィッツジェラルドなどのバーボンを始め、その他の蒸溜酒などのブランドを所有しています。
■テネシーウイスキー
テネシーウイスキーは、アメリカのテネシー州で造られるウイスキーです。
テネシーウイスキーを生んだテネシー州は、アメリカ合衆国の南東部に位置しており、すぐ北にはバーボンの聖地とされるケンタッキー州が隣接しています。テネシーとケンタッキーでは、18世紀後半のアメリカ建国直後から、トウモロコシを主原料としたバーボンウイスキー造りが広まっていました。特に、ケンタッキー南部は、コーンベルトと呼ばれるトウモロコシが主要作物として盛んにつくられていた場所でした。また、テネシー州には、熟成樽の材料となるホワイトオークが豊富にありました。テネシーウイスキー製造過程で必要なサトウカエデの樹液は、メープルシロップの原料になります。
ともにバーボン文化を育んできたテネシーとケンタッキーですが、テネシーウイスキーが生まれたのは1800年代後半です。1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国は南と北に分かれて激しい内戦を繰り広げることになります。世にいう「南北戦争」です。南北戦争時、テネシー州は南軍について戦いました。お隣のケンタッキー州はもともと南軍指示だったのですが、北軍に寝返ってテネシー州と戦った歴史があります。南北のちょうど境界線となったテネシー州では戦いが激化、壊滅的な被害が出ます。逆にケンタッキー州は比較的軽傷で済みましたので、早々に産業を立て直します。このような経緯からテネシー州の人々はケンタッキー州の人々に対して強い敵対心を持ちます。そして戦後、ケンタッキーの象徴となったバーボンに対抗するように、この地の蒸溜技術者たちの手で「テネシーならではのウイスキー」が育まれていきました。そんなボロボロの「テネシー州」に若くして蒸溜業を営む青年がいました。それがテネシーウイスキーを代表する「ジャックダニエル蒸溜所」を設立した「ジャスパー・ニュートン・ジャック・ダニエル」です。
「ジャスパー・ニュートン・ジャック・ダニエル」は1850年9月、テネシー州に生まれました。蒸溜所のオーナー兼牧師のダン・コール氏のもと、7歳の頃から蒸溜技術の習得に励みます。そしてダン・コールが牧師業に専念することになった時、ジャックに蒸溜所を任せることとなります。その時のジャックの年齢は13歳です。その頃は南北戦争真っただ中です。戦火の中、ジャック少年はコツコツと蒸溜技術を積み上げていたのです。
ジャックは蒸溜技術において高い評価を受けていましたが、身長は150cm程度ととても小柄な人物でした。「ボーイ・ディスティラー(少年蒸溜業者)」というあだ名で呼ばれており、その小さい身体にかなりのコンプレックスを持っていたようです。
ケンタッキー州の蒸溜業者達が自分達の造ったウイスキーをフランスの王族にちなんで「バーボン」と名づけたことも気取っているようで気に入りません。そして、ジャックは、「バーボンではなく、あくまで「テネシー発のウイスキーとしてトップを獲る」と誓うのです。そして今日、ジャック・ダニエルは見事「世界一売れているアメリカンウイスキー」の称号を手にしました。テネシー発のウイスキーが、ケンタッキー州はおろかアメリカ全土のウイスキーの売り上げを上回ったのです。今もジャック・ダニエルは「我々が造っているのはバーボンではない(テネシーウイスキー、ジャックだ)」と断固主張しています。
■ジャックダニエル蒸溜所の始まり
アメリカでも南北戦争終了後に、連続式蒸溜機が広く採用されて大規模生産の時代に突入し、1866年に政府公認第1号の蒸溜所となるジャック・ダニエル蒸溜所が建設されました。
テネシーウイスキーはテネシー州で造られることが法律で定められています。ただし製法としてはバーボンの条件を満たしているため、バーボンウイスキーにも分類できます。テネシーウイスキーにだけあってバーボンにはない工程として、蒸溜後の原酒をサトウカエデの炭で濾過する「チャコールメローイング製法」があります。これにより雑味が取り除かれ、口あたりまろやかでほんのり甘いテネシーウイスキーらしい味となるのです。「サトウカエデ(砂糖楓、メープルツリー、紅葉、楓、かえで、シュガーメープル)」から採取された樹液は「メイプルウォーター」と呼ばれ、糖度は2%程度です。スイカのような香りがします。これを煮詰めて糖度60~70%までにしたものがメイプルシロップです。
単独銘柄として世界で1番売れているアメリカンウイスキーはテネシーウイスキーの「ジャック ダニエル(ジャックダニエルズ、と表記されることが多い)」です。スローガンである「IT’S NOT BOURBON,IT’S JACK.(バーボンではない。ジャックだ)」に、単に「バーボン」とひとくくりにされたくはないというテネシーウイスキーとしてのプライドが感じられます。「テネシーウイスキー」のラベルを大きく貼り、頑なにそのプライドを貫いています。
このため、今でもテネシーの造り手たちは「バーボンではない、あくまでテネシーウイスキーだ」と強いこだわりをもっているだそうです。
テネシーウイスキーを飲むとバーボンと味が似ていて、「甘くて飲みやすい!」と感じる方が多くいます。ジャック・ダニエルをコーラで割ったジャックコークなどはお酒を飲みなれていない方にも人気です。基本的な原料はバーボンと同じで、51%以上がトウモロコシです。蒸溜方法や熟成方法にも違いはありません。
違いは、「テネシー州で造られていること」と「蒸溜直後の原酒(ニューポット)をサトウカエデの木を原料に作った炭で濾過するチャコールメローイング製法で造られていること」です。最近では「チャコールメローイング製法」を使っていないテネシーウイスキーも出てきたので、もはや違うのは「テネシー州で造られているかどうかだけ」ともいえます。
■チャコールメローイング製法
テネシーウイスキーの特徴のひとつである「チャコールメローイング製法」は蒸溜後、樽詰めする前の原酒をサトウカエデの炭でろ過します。ジャック・ダニエル蒸溜所の場合、炭をびっしりとつめた「ろ過槽」に8~10日かけて原酒を通していきます。このろ過製法が若い蒸溜酒の味の尖りを取り除くのです。この手法は「リンカーン郡製法」としても知られ、ウイスキーにかすかなスモークの香りと、ガラスのようになめらかな舌触りと、とろみのある甘さを与えます。テネシー・ウイスキーの蒸溜方法、「リンカーン郡製法」はジャックダニエル創業者のジャック・ダニエルがこの地で開発したことから名づけられました。しかし、後にその地域がムーア郡として分離したため、現在のリンカーン郡とは異なります。ちなみに全てのテネシーウイスキーがこのチャコールメローイング製法(リンカン郡製法)を使っているわけではありません。「プリチャーズ蒸溜所」は炭でろ過していないテネシーウイスキーを造っています。さらにいうとチャコールメローイング製法を使ったら「バーボン」と名乗れないわけではありません。一般的に「バーボン」を名乗っている蒸溜酒はこの技法を使わないというだけです。
テネシーウイスキーはジャック・ダニエルだけではなく、現在ではさまざまな蒸溜所が30箇所前後稼働しています。ジョージ・ディッケル蒸溜所、コルセア蒸溜所などがあります。
■アメリカンウイスキーの定義
連邦アルコール法で下記のように規定されています。
①アメリカ合衆国内で製造されていること
②穀物を原料とし、発酵させ、アルコール度数95%以下で蒸溜
③オークの容器で貯蔵、アルコール度数40%以上で瓶詰めしたもの
■バーボンなどの詳細な定義
さらに上記のアメリカンウイスキーの条件を満たした上で、原料などにより以下のような分類がされています。
①バーボンウイスキー
・原料の51%以上がトウモロコシである
・アルコール度数80%以下で蒸溜
・内側を焦がした(チャー)新品のオーク樽で熟成させる
・62.5%以下で樽詰めする
・2年以上熟成させたものは「ストレート」バーボンウイスキー
・熟成期間が4年未満の場合はラベルに熟成年数を表記する
・ボトリングに際しては希釈用の水以外加えることができず、アルコール度数は40%以上とする、着色用のカラメル添加は不可
②ライウイスキー
ライ麦51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
③ウィートウイスキー
小麦51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
④モルトウイスキー
大麦麦芽51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
⑤ライモルトウイスキー
ライ麦芽51%以上、アルコール80%以下で蒸溜、内側を焦がした(チャー)オークの新材でつくられた容器に62.5%以下で貯蔵・熟成
⑥コーンウイスキー
トウモロコシを80%以上使用し、アルコール80%以下で蒸溜、貯蔵を・熟成行うオークの容器は古樽か内側を焦がしていない容器
⑦その他
・前述の通り熟成期間の規定はありませんが、それぞれ最低2年以上熟成させたものは「ストレートバーボンウイスキー」「ストレートコーンウイスキー」という風に「ストレート」の表示が可能となります。
・ケンタッキー州では、州内で造られ1年以上の貯蔵がされたものはケンタッキー・バーボンと名乗ることができます。
・また、4年未満のものについてはラベルに熟成期間を表示しなければならないため、多くのケンタッキー・ストレート・バーボンは4年以上の貯蔵を行っています
■テネシーウイスキーの定義
①アメリカ国内で製造
②主原料のトウモロコシの使用比率が51%以上
③アルコール度数80%以下で蒸溜
④内側を焦がしたホワイトオークの新樽で、アルコール度数62.5%以下で貯蔵・熟成
⑤水以外を加えずアルコール度数40%以上でボトリング
⑥テネシー州で製造
⑦サトウカエデの木から作った炭で濾過処理をしている(チャコールメローイング)製法で造られている
(3)アイリッシュウイスキー
■アイリッシュウイスキーの歴史
アイルランドで造られるウイスキーです。スコットランドへ伝わった製法はアイルランドにも広まりました。
アイルランドとは、アイルランド島の大半を占めるアイルランド共和国と北東部の北アイルランドです。アイルランド共和国は独立国家ですが、北アイルランドはイギリス(UK)の一部です。この2つの国で作られるウイスキーをアイリッシュウイスキーと呼びます。ウイスキー発祥の地とされています。年間の気温差が小さく、冷涼で程よい湿度があるアイルランドの気候はウイスキーの製造に適しています。スコッチウイスキー、バーボンウイスキー、ジャパニーズウイスキーと比べると、日本での知名度はまだ低く、飲んでいる方はあまり見かけません。しかし、日本でも良く見かける「アイリッシュパブ」は、その名のとおり、アイルランドのパブを指します。「パブ(パブリック・ハウス、Public House)」とは、イギリスで発達した、気楽にビールやウイスキー、おつまみなどを楽しめる酒場のことです。しかし、アイルランドにおけるパブは、飲食だけでなく雑貨屋などと兼業しているお店が多い点が特徴です。現地のパブによっては、アイリッシュ・ミュージックや、伝統楽器を使った生演奏を聞かせてくれるものもあるようです。
■かつての大御所(1900年頃)
アイリッシュウイスキーは1900年頃まで、世界の6割近いシェアを占めていたといわれる大御所です。厳しい密造酒摘発などにもさらされながら大量生産を行っていました。ピークは1900年頃で、その頃のアイルランドの蒸溜所の数は12,000~15,000といわれていました。しかし、1919年、主な取引先であるアメリカで禁酒法が実施されます。するとアメリカにウイスキーを輸出できなくなり、生産規模が一気に縮小します。続くアイルランド内戦で経済力が低下、さらに第二次世界大戦においてアイルランドは中立の立場を取ったため、国内の供給を優先しウイスキーの輸出を制限しました。戦地のアメリカ兵にはアイリッシュウイスキーに代わり、スコッチウイスキーが配給されはじめます。これがアメリカ兵にウケて、大流行しました。徐々に市場のシェアを奪われ、アイルランドの蒸溜所は次々と閉鎖されます。19世紀後半から20世紀初頭には蒸溜所は30までに激減し、1980年代にはたった2つ(ミドルトンとブッシュミルズ)に集約されてしまいます。
●ダブリンビッグ4
生産量世界一を誇っていたアイリッシュウイスキー全盛のころ、ダブリンのリフィー川左岸のボウストリートという通りに「ジェムソンボウストリート蒸溜所(1780~1971)」が構えられたことで、同規模の大型蒸溜所が次々と建てられました。1791年には「ジョンズレーン蒸溜所(1791~1974)」、1799年に「マローボーンレーン蒸溜所(1752~1923、1752年にウィリアムジェイソンが設立、1782年にウォルターティーリングが設立、1799年創業開始)」が誕生しています。この3つの蒸溜所と1757年創業の「トーマス・ストリート(ジョージロー)蒸溜所(1757~1926)」を加えて、「ダブリンビッグ4」と呼ばれています。
■アイリッシュウイスキーの復活(1985年頃~現在)
昨今アイリッシュウイスキーの特徴的な味わいが見直され、新興蒸溜所が次々と乱立しています。現在その数は30を超え、復興の兆しを見せております。2023年現在も、世界的にアイリッシュウイスキーの人気が急上昇中です。
●クーリー蒸溜所(現在は、サントリー)
そんな中、1985年、ハーバード大でアイリッシュ・ウイスキーの歴史の研究をし、その栄枯盛衰を学んできたジョン・ティーリング氏が国営のジャガイモのシュナップス(ドイツで飲まれている蒸溜酒の1種)蒸溜所を買収し、アイルランドで100年ぶりに新しいウイスキー蒸溜所を誕生させました。それが1987創業のクーリー蒸溜所です。そのジョン・ティーリング氏の息子2人がティーリング蒸溜所の創業者です。アイリッシュの革命児の異名をとるクーリーは次々と商品をリリースし、開業以来300以上のメダルを受賞しています。2011年12月16日、ビーム社がクーリー蒸溜所の9500万ドル(7100万ユーロ)での買収計画を発表し、売却は2012年1月17日に終了しました。ビーム社は2014年4月30日以降はサントリーホールディングス傘下となっており、現在クーリー蒸溜所はビーム サントリーの子会社となっています。キルベガン、カネマラなどのブランドを有しています。
●タラモア蒸溜所(現在は、ウィリアム・グラント&サンズ社)
主にタラモアデューを生産しています。
タラモア蒸溜所は、時代と共に、新旧の蒸溜所が移り変わっています。
旧タラモア蒸溜所は、1829年に設立した旧タラモアデュー蒸溜所(アイルランド中央、タラモア)で、1954年に閉鎖されました。タラモアデューは、1974年までは閉鎖される前のジョンズレーン蒸溜所、1975年にジョンズレーン蒸溜所が閉鎖されてからは、ペルノ・リカール新ミドルトン蒸溜所で生産され続けました。
新タラモア蒸溜所は、2014年、グレンフィディックで有名なウィリアム・グラント&サンズ社がタラモアデューのブランド権をペルノ・リカールより購入し、元々のブランドの起源でもある新タラモア蒸溜所がタラモアの街にオープンしました。ウィリアム・グラント&サンズ社は、スコッチの生産量では、ディアジオ、ペルノリカールに続く第3位の大手で、グレンフィディック蒸溜所(スコットランド、1887年~)、バルヴェニー蒸溜所(スコットランド、1892年~)、キニンヴィ蒸溜所(スコットランド、1990年~)、アイルサベイ蒸溜所(ガーヴァン蒸溜所内、モルト、2007年~)、ガーヴァン蒸溜所(スコットランド、グレーン、1963年~)、タラモア蒸溜所(アイルランド、2014年~)を所有しています。
●新ミドルトン蒸溜所(現在は、アイリッシュ・ディスティラーズ社)
現在、アイリッシュ・ディスティラーズ社(1966年設立、ペルノリカール傘下)が所有するアイルランド最大の新ミドルトン蒸溜所(新ミドルトン蒸溜所、1975年生産開始)では、ジェムソン、ミドルトン、パワーズ、レッドブレスト、スポットやパディーなどのブランドのアイリッシュ・ウイスキーのほとんどが製造されています。
●アイリッシュ・ディスティラーズ社(新ミドルトン蒸溜所)
長年低落傾向にあったアイリッシュ・ウイスキー業界にあって残っていたコークディスティラーズ社(旧ミドルトン蒸溜所)、ジェムソン(ボウストリート蒸溜所)とパワーズ(ジョンズレーン蒸溜所)の3社は存続をかけて合併を決意し、アイリッシュ・ディスティラーズ社を設立しました。生産も集約化することになり、ダブリンの中心街にあったジェムソンボウ・ストリート蒸溜所とジョンズ・レーン(ジョン・パワー)蒸溜所は、拡張の余地もなく操業にも不便なことから閉鎖されることになりました。代わりに広大な敷地と豊富で良質の水に恵まれているミドルトンに新蒸溜所(現在のミドルトン蒸溜所)が建設されました。
ジェムソンボウ・ストリート蒸溜所は、ダブリンのボウストリートにありました。1780年創業、1971年生産停止、現在は、ビジターセンターとなっています。
ジョンズ・レーン(ジョン・パワー)蒸溜所は、、ダブリンのトーマスストリートにありました。1791年創業、1974年閉鎖、ジョンパワー&サンが所有していました。
●旧ミドルトン蒸溜所(1975年閉鎖)
一方、1975年の新ミドルトン蒸溜所の稼働に伴い、1825年から創業していた旧ミドルトン蒸溜所とジョンズレーン蒸溜所は、1975年閉鎖しました。
●コーク蒸溜所会社(旧ミドルトン蒸溜所)
旧ミドルトン蒸溜所はコーク(正確にはコークの東約20km)に1825年に設立されました。ジェームス・マーフィー兄弟が1796年に建てられた元紡績工場を買取り蒸溜所に改装しました。1867年にはコーク(アイルランド南側)にあった他の4つの蒸溜会社と合併してコーク蒸溜所会社となり、生産は旧ミドルトン蒸溜所に集約しました。アイルランド東側に位置するダブリンの強力な蒸溜会社との競争力を高めるためでした。この蒸溜所は150年間操業し、1975年の新ミドルトン蒸溜所の完成で生産は終了しましたが、蒸溜所そのままほぼ完全な形で保存され現在はジェムソン・ヘリテージとして多くの訪問者を集めています。150年前のウイスキー技術を残す産業考古学的価値も高いです。コークディスティラーズ社(コーク蒸溜所会社)は、1840年の大飢饉により、アイルランド全土でウイスキーの需要が減少し、1860年代までに、ミドルトンを含む多くの地元の蒸溜所が合併して設立されました。現在のウエストコークとは関係ありません。
●ウエストコーク蒸溜所
ウエストコーク蒸溜所は、アイルランド・コーク州南部のスキバリーンにある蒸溜所です。 2003年にジョン・オコネル、デニス・マッカーシー、ゲアル・マッカーシーの3人によって設立されました。 当初は小さな蒸溜器を使用していましたが、2014年に現在の蒸溜所が完成し、スプリングバンク蒸溜所のマスターディーラーであったフランク・マッカーディをアドバイザーとして迎え、品質の向上に力を入れています。 ウエストコーク蒸溜所で製造されているウイスキーは、アイリッシュウイスキーであるウエストコークです。
●ブッシュミルズ蒸溜所(オールドブッシュミルズ蒸溜所)
アイルランド島の北端、冷たい海に面したイギリス領北アイルランド・アントリム州ブッシュミルズの地に立つブッシュミルズ蒸溜所は、1608年創業ともいわれるアイリッシュウイスキー最古の蒸溜所のひとつです。ブッシュミルズのすべてのボトルに「1608」が記載されており、「世界最古のウイスキー蒸溜所」という称号を誇りに思っています。1608年、当時のイングランド国王ジェームズ1世が、現在ブッシュミルズ蒸溜所のあるアントリム州の領主サー・トーマス・フィリップスに蒸溜免許を与えた記録が残されていますが、公式には「The Old Bushmills Distillery」が1784年に登録されています。第二次世界大戦後、蒸溜所はアイザック・ウルフソンによって買収され、1972年にアイリッシュ・ディスティラーズに引き継がれました。これは、当時アイリッシュ・ディスティラーズがすべてのアイリッシュ・ウイスキーの生産を管理していたことを意味しています。
1988年6月、アイリッシュ ディスティラーズはフランスの酒類グループであるペルノ リカールに買収されました。
2005年6月、ディアジオ社に2億ポンド(約400億円))で買収されました。
2010年 日本国内の取扱いが、明治屋からキリンビールへ変わりました。明治屋創業者の磯野計は、麒麟麦酒の設立者の一人です。元々、麒麟ビールの販売は、明治屋が最初です。
ノルウェー系アメリカ人の醸造技師であるウィリアム・コープランドが、1869年(明治2年)日本で初めてとなるブルワリー(ビール醸造所)「スプリング・バレー・ブルワリー」を横浜の外国人居留地に設立しました。この「スプリング・バレー・ブルワリー」がのちの麒麟麦酒の前身であり、日本で初めて産業としてビールの製造を継続的に行ったため、「日本ビール産業の始祖」とも呼ばれます。「スプリング・バレー・ブルワリー」が経営難に陥るとイギリス人により、1885年、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー(JBC)」が設立されました。JBCは、外国人経営の会社で、ビールの醸造会社でした。1888年に、この「スプリング・バレー・ブルワリー」で「キリンビール」が製造され、JBCの設立に関わった貿易商トーマス・グラバーの推薦もあり、明治屋が一手販売権を取得し販売しました。明治屋創業者の磯野計(1858~1897)が39歳の若さで亡くなると、米井源次郎が2代目社長に就任します。米井源次郎は、磯野計のまたいとこで、大学卒業後に明治屋に勤めており、磯野計の娘菊子の後継人となりました。その後、1906年に、三井物産が中心となり、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)が合併して大日本麦酒(アサヒビール、サッポロビールなどの前身)が誕生し、JBCの買収が懸念されると、1907年(明治40年)に三菱財閥傘下の日本国籍会社「麒麟麦酒」として新発足しました。「麒麟麦酒」は、明治屋の2代目社長である米井源次郎(1861~1919)が尽力し、三菱財閥の岩崎久弥(1865~1955、三菱財閥創業者岩崎弥太郎の長男)、豊川良平(1852~1920、三菱四天王)、近藤簾平(1848~1921、三菱四天王)に懇請し人材と資金援助を受けることにより設立されました。米井源次郎は、麒麟麦酒の専務取締役に就任し、JBCの買収に成功します。キリンビールの販売は、引き続き明治屋が一手販売権を所有しました。その後、人気アニメ「鬼滅の刃」の舞台でもある激動の「大正時代(1912年〜1926年)」には、大正デモクラシー(民本主義、大衆の政治や社会への関心が増大)、大正ロマン(感情や個性を重視)ともいわれた、社会や文化の変化が起こってきます。サラリーマンが生まれたのもこの頃です。また、1914年~1918年の第一次世界大戦、1923年の関東大震災などの有事に加え、麒麟麦酒の設立に関わった米井源次郎、豊川良平、近藤簾平らも他界されていたことにより、力関係は、製造会社である麒麟麦酒へと傾いていました。1927年(昭和2年)1月1日より、明治屋は、従来の一手販売権を解除し、麒麟麦酒の一特約店となりました。
2014年11月、ディアジオがまだ所有していなかったドン・フリオ・ブランドのテキーラの50%と引き換えに、ブッシュミルズ・ブランドをプロキシモ・スピリッツと取引したことが発表されました。日本国内の取扱いも、キリンビールからからアサヒビールへ変わりました。
現在は、世界最大のテキーラブランドであるホセクエルボ(プロキシモスピリッツ)が所有しています。2023年4月、ブッシュミルズは2番目の蒸留所「コーズウェイ蒸留所」を開設しました。投資額はなんと3,700万ポンド(日本円で60億円以上)になります。ちなみにプロキシモ社は、ブッシュミルズの製造や熟成庫などの施設に対して、過去5年で6,000万ポンド(日本円で約100億円)の投資を行っています。
●ティーリング蒸溜所(ティーリングウイスキー社)
ティーリング・ウイスキー社は、2011年にアイリッシュ初のボトラーズとなりました。このボトラーズはハーバード大でアイリッシュウイスキーの歴史を研究し、その栄枯盛衰を学んできたジョン・ティーリング氏の2人息子(ジャックティーリングとスティーブンティーリング)が設立したボトラーズです。ティーリングウイスキー社は、もともとアイルランドのダブリンに本拠を構えるインディペンデントボトラー(独立瓶詰業者)でした。現在はボトラー(独立瓶詰業者)でありながら、蒸溜所も経営しています。
元々、ティーリング家は、1782年にダブリンに蒸溜所を創業した古い家系で、先祖の「ウォルター・ティーリング」はダブリンでは名の知れた蒸溜業者でした。1782年、ウォルターティーリングは、ダブリンのリバティーズ地区にあるマローボーンレーンにマローボーンレーン蒸溜所(ウィリアムジェイソン蒸溜所)を設立しました。
マローボーンレーン蒸溜所は、アイルランドのダブリンのマローボーンレーンにあったアイリッシュウイスキー蒸溜所です。歴史あるダブリンの4大ウイスキー蒸溜所の1つで、2世紀にわたって成功を収めましたが、アイルランドのウイスキー市場を席巻したジェムソン家に売却されたのち、ジェイムソンウイスキー王朝の一員であるウィリアムジェイムソンによって経営されていました。しかし、アイリッシュウィスキーへの需要減少による財政難を受けて1923年に閉鎖されました。
その後、ティーリング家の末裔の中から、クーリー蒸溜所の社長を務めた「ジョン・ティーリング」が、アイリッシュウイスキーの業界へ参入します。
●ジョンティーリング(ティーリング家)
ジョン・ジェームス・ティーリング(1946年1月生まれ、現存)はアイルランドの学者兼実業家であり、数十年にわたって開発または改革してきた幅広いビジネスで有名です。元々は、母校であるダブリン大学(UCD、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン)などの教育者であり学者でしたが、ハーバード大学で、世界のウイスキー売上の60%を占めていたアイリッシュウイスキー産業が市場シェアを2%となるまでの崩壊の経緯を研究し、1975年に経営学の博士号を取得しました。その後、彼はクーリー蒸溜所を立ち上げ、アイリッシュウイスキー業界に存在していたアイリッシュディスティラーズの独占を打ち破り、クーリー蒸留所は、1757年に設立されたキルベガン蒸溜所(現在は、クーリー蒸溜所と同じくサントリー)を50年の休止期間を経て再開しました。彼は、アイルランド人としては最多となる10社の企業をロンドン証券取引所に上場させたことでも有名です。また、ダブリン大学のビジネススクールで20年以上講義を行ってきました。彼は小学校や大学向けの教育テキストを多数執筆しました。
ジョン・ティーリングの息子の「ジャック・ティーリング」は、2012年に「ティーリングウィスキーカンパニー」を設立します。2011年12月16日、ビーム社は当時存在した唯一の独立系アイリッシュ・ウイスキー蒸溜酒製造会社である「クーリー蒸溜所」を9,500万ドル(日本円で約150億円)での買収に合意します。「ジャック・ティーリング」は、アイリッシュウイスキー業界にアイルランドの「独立」の気運を再び取り戻そうと、当時のクーリー社の社長を退任し、ハンドクラフト&スモールバッチのアイリッシュウイスキーを造るべく、クーリーを離れて2012年に設立しました。アイルランドの蒸溜所(おそらく、社長を努めていたクーリー蒸溜所や2015年にジョン・ティーリング等が設立したザ・グレートノーザン蒸溜所)と樽の供給に関する契約を結び、使用する樽を長期にわたり確保することに成功し、その後の展開を考え蒸溜所の建設にも着手し、2015年9月に正式に「ティーリング蒸溜所」をオープンしました。ティーリング家はダブリンでウイスキーの生産が盛んだった1700年代に既にウイスキーの蒸溜所を所有していましたが、ダブリン市内の蒸溜所がすべて閉鎖されてから約125年ぶりに稼動を始めたのがこの新しいティーリング蒸溜所です。ジャックティーリングとスティーブンティーリング兄弟によって設立されたこの「ティーリング蒸溜所」は、少量生産でアイリッシュウイスキーのボトリングのみを生産しています。歴史的なリバティーズ(ダブリン西側)の中心部に位置し、ウイスキーの歴史が息づく街を背景に、ティーリングウイスキー蒸溜所は、125年以上ぶりにダブリンの新しい蒸溜所として2015年にオープンしました。オープン以来、多くの賞を受賞しており、評価が高いです。今日市場に出回っているティーリングブランドの多くは、別の供給元から確保された在庫からのものですが、「ティーリング蒸溜所」で生産されたウイスキーは倉庫で熟成されます。同蒸溜所で蒸溜した初のウイスキーとして2019年に「シングルポットスティル」として商品化されました。
また、ジョン・ティーリングは、息子のジャック・ティーリングとスティーブン・ティーリングと共に、グレートノーザンディスティラリーでグレーンウイスキーを造り始めます。ザ・グレートノーザン蒸溜所は、元々はディアジオが所有していたグレートノーザンブルワリーの跡地に設立されました。グレートノーザンブルワリーは、ダブリンの北、アイルランドと北アイルランドの国境付近に位置するダンドークにあるハープラガー(ビール)の醸造所でしたが、2015年に醸造所は閉鎖されました。その後、ジョン・ティーリング等によって購入され、2015年にジョン・ティーリング等によって「ザ・グレート・ノーザン蒸溜所」が設立されました。アイルランドで最も大きい蒸溜所の1つで、グレーン、トリプル モルト、ダブル モルト、ピーテッド モルト、ポット スチル ウイスキーなど、さまざまな種類のアイリッシュ ウイスキーを製造するポットスチルとコラムスチル(=パテントスチル、連続式蒸溜機)を稼働させています。アイルランド各地にグレーンウイスキーを供給しながら、国内のクラフト蒸溜所をサポートしてきました。1987年、ジョン・ティーリングは、「クーリー蒸溜所」でスピリッツの製造に携わりながら、独立ボトラーズとして、アイリッシュウィスキーを世に打ち出し、アイルランドの魂を取り戻そうという強い志を持って取り組んでいます。
■アイリッシュウイスキーの復活
ダブリンの蒸溜所や醸造所の代名詞であるリバティーズの中心で、ティーリング蒸溜所の開設に伴い、この地域で蒸溜所が復活しました。ダブリンには、ティーリング蒸溜所(2015)、ピアース・ライオンズ蒸溜所(2017、ピアースアイリッシュウイスキー)、ダブリンリバティーズ蒸溜所(2019、ダブリンリバティーズ各種)、ロー蒸溜所(2019、ROE&CO各種)の4つの蒸溜所(2020年時点)が誕生していることになります。いずれも歩いて3~5分以内のリバティー地区の蒸溜所で、、狭いリバティー地区に4つの新しい蒸溜所が誕生しており、アイリッシュは今、大きな転換期を迎えようとしています。
■アイリッシュウイスキーの始まり
アイリッシュ・ウイスキーはヨーロッパの古い蒸溜酒のひとつと考えられており、アイリッシュ・ウイスキーとスコッチ・ウイスキーのどちらがより歴史があるかの議論には決着がついてません。伝承によれば、6世紀に中東を訪れたアイルランドの修道僧が、現地で香水を作るために用いられていた蒸溜技術を持ち帰り、それを酒造に応用したという説があります。また、聖パトリックが蒸溜技術を伝えたとする伝承も存在します。ヘンリー2世によるアイルランド遠征の時、家臣からの報告書にアイルランドで大麦から蒸溜した酒が飲まれていた記録があったといわれていますが、確認できる史料は無く、信憑性を疑問視する声もあります。12世紀当時にアイルランドで飲まれていた蒸溜酒は、ビールを蒸溜した濁り酒でした。アルコール度数は約20度と現在のウイスキーに比べて低く、発酵の段階で果物、蜂蜜、ハーブを入れて香りをつけていたともいわれています。
オールド・ブッシュミルズ蒸溜所は1608年にジェームズ1世から免許を授かった最古の公認蒸溜所を名乗り、ボトルにも「1608」を刻印していますが、1608年当時にブッシュミルズという名の蒸溜所が実在していたかは不確かであり、ブッシュミルズが操業を始めたことが確認できるのは1784年です。輸入元のアサヒビールでは「1608年ともいわれ」という表現を使っています。
■ウイスキーの語源
ウイスキーという言葉の由来は、「命の水」を意味するアイルランド語の「uisce beatha(イシュケ・バーハ)」に由来するといわれています。「イシュケ・バーハ」の語源については、ゲール語で「健康の水」を意味する「ooshk-‘a-pai」と呼ばれていたものがラテン語で「命の水」を意味する「uisge-‘a-bagh」という言葉で呼ばれるようになり、「uisge-‘a-bagh」がアイルランド語の「uisce beathadh」に変化したとされています。1172年のヘンリー2世によるアイルランド遠征の時、アイルランド人が愛飲していた蒸溜酒はイングランド兵によって「ushky」と誤って伝えられ、その言葉が英語のwhiskeyに転訛(てんか)したといわれています。アイルランドでは、ウイスキーは「水」を意味する「uisce(ウィスカ)」の単語で短縮されて呼ばれ、アイルランド語には酒類、特にウイスキーを指してしばしば「Craythur(クリーチャー)」という言葉が使われます。
ウイスキーの英語の綴りが、アイルランドの「whiskey」とスコットランドの「whisky」と違いがある理由や法律上の違いなどは分かっていません。かつてはブッシュミルズや現在は消滅したコールレーン(1820~、1933~1978ブッシュミルズ買収)といった有力どころの蒸溜所も「whisky」の綴りを使用し、アイルランド国内でも「whisky」と「whiskey」の両方の表記が使われていたようです。一説には、本来アイルランドでも「whisky」と綴られていましたが、19世紀になってダブリンの蒸溜所が品質を宣伝するために「e」の一字を入れて差別化したところ、地方の蒸溜所もこれに続いたためにアイリッシュ・ウイスキー全体が「whiskey」と綴られるようになったとされています。「パディ(サゼラック社が製造するブレンデッド・アイリッシュ・ウイスキーのブランド)」を生産していたコーク蒸溜所は「whisky」の綴りを使い続けていましたが、海外市場での混乱を避けるため、1979年に「パディ」にも「e」が入れられました。
かつては、生産量世界一を誇っていたアイリッシュウイスキーです。アイリッシュウイスキー全盛のころ、ダブリンのリフィー川左岸のボウストリートという通りに「ボウストリート蒸溜所」が構えられたことで、同規模の大型蒸溜所が次々と建てられました。1791年には「ジョンズレーン蒸溜所」、1799年に「マローボーンレーン蒸溜所」が誕生しています。この3つの蒸溜所と1757年創業の「トーマス・ストリート蒸溜所」を加えて、「ダブリンビッグ4」と呼ばれていました。
スコットランドのブレンドウイスキーが勢いを伸ばしていくのに対し、アイリッシュウイスキーの国外への販売はどんどん減っていきます。1879年、ダブリンの4つの蒸留所は合同で「ウイスキーの真実(Trusths about Whisky)」 という本を出版しその中でブレンドウイスキーの廃止を訴えました。スコットランドのブレンドウイスキーへの怒りから、それとアイリッシュウイスキーを区別するためにアイルランドでは「whisky」ではなく「e」を入れ「whiskey」と書かれ始めましたが、それが今でもアイルランドでは「whiskey」が使われスコットランドでは「whisky」が使われる理由ということです。■アイリッシュウイスキーの定義
アイルランド共和国においては、1980年アイリッシュ・ウイスキー法第1条により、次のように定義されています。
①穀物類を原料とする
②麦芽の酵素にて糖化、酵母の働きで発酵
③蒸留液はアルコール度数94.8%以下に抑える
④木樽で3年以上熟成させる
⑤アイルランド、もしくは北アイルランドの倉庫にて熟成を行う
(4)カナディアンウイスキー
カナダで造られているウイスキーです。アメリカの禁酒法時代に国境を越えてカナダに逃れた作り手たちにより生産量を拡大しました(カナディアン・ウイスキーの始まり)。フレーバリングウイスキーとベースウイスキーの2タイプの原酒をブレンドしたブレンデッドウイスキーが主流で、比較的ライトな酒質が特徴です。飲みやすさの秘訣は、ライ麦を多く入れたコーンベースのウイスキーが多いことによります。 カナダではカナディアンウイスキーのことを「ライウイスキー」と呼ぶことも多いです。
他のウイスキーの定義と比べると条件が少ないため、カナディアンウイスキーは自由度の高いウイスキーなのです。
カナディアンクラブのハイラムウォーカー蒸溜所、クラウンローヤルのクラウンローヤル蒸溜所などがあります。
日本では知名度が低いですが、世界的にはブランド価値があります。クラウンローヤルは、世界の売上ランキングでも10位前後にランキングされています。
■カナディアンウイスキーの始まり
蒸溜酒の生産開始をカナディアンウイスキーの誕生と考えるのであれば、以下の説が有力ともいえます。
カナディアンウイスキーは17世紀後半の1688年にケベック州モントリオールで、ヌーベルフランス(ニューフランス、新フランス、フランスの植民地、カナダの一部を含むハドソン湾からメキシコ湾の間付近)の初代監督官で、モントリオールの発展の礎を築いたといわれるアンタンダンジャンタロンが創業した「ブラッスリージュロワ(ビール醸造所)」に併設されていた蒸溜酒の装置により初めて蒸溜酒を造ったのが始まりとされています。もともとビールを生産していた蒸溜所にて、「ウイスキー輸入削減」を目的としてウイスキーを作り始めました。おそらく、この地域は、フランスの支配下にありましたが、イギリスの勢力が高まってきていたので、イギリスからの輸入をなくそうとしていたと推測できます。ちょうどこの頃は、イギリスとフランスとの対立である第2次百年戦争(1689~1815年)の始まる時期であり、ヌーベルフランスが、イギリスからのスコッチウイスキー輸入をなくそうとしていたことは容易に想像できます。結果として、北米植民地戦争(1744~1748年)、フレンチ・インディアン戦争(1754~1763年)、七年戦争(1756~1763年)の結果、ケベック州は、1603年以来フランス植民地となっていましたが、フレンチ・インディアン戦争で1759年にイギリス軍に占領され、1763年のパリ条約でカナダ全体がイギリス領となりました。これにより、ニューフランス(ヌーベルフランス)と呼ばれていたフランスの植民地はなくなりました。
その後18世紀になり、1775年、アメリカ独立戦争が始まります。カナダはアメリカと同じくイギリスの植民地であった時代で、アメリカの独立に批判的な移民がカナダにやってきました。そして、アメリカからの移民が大量に余っていたライ麦や小麦を活用してウイスキー造りをするようになり、カナダでのウイスキー生産量は増えていきます。
さらにそこから100年以上あとになり、1920年〜1933年のアメリカ国内での禁酒法時代になります。アメリカ国内でお酒の製造、販売、輸送ができなくなったことにより、皮肉なことにカナディアンウイスキーの輸出量が増えていきます。禁酒法以前はアメリカで消費されるウイスキーはアイリッシュウイスキーや自国のものがメインでした。しかし、禁酒法によりアイリッシュウイスキーの輸入が禁止になり、アメリカでのウイスキー造りも禁止されてしまいました。カナディアンウイスキーも輸入は禁止でした。しかしアメリカに隣接しており密輸がしやすかったことから流通し始めます。その結果、カナディアンウイスキーを飲むアメリカ人が増えていきました。結果的に、アメリカ禁酒法時代の13年間はアメリカやアイリッシュウイスキーの産地に大打撃を与えるほど、カナディアンウイスキーは普及しました。カナディアンウイスキーは、「アメリカのウイスキー庫」と呼ばれるまでになるほど繁栄しました。このような歴史から、現在でもカナディアンウイスキーの輸出先としてアメリカは大きな割合を占めています。
禁酒法時代に生産量が増えたカナディアンウイスキーですが、1980年代以降にカナダ国内の厳しいアルコール制限やアメリカ人の趣向がジンなどの他のアルコールに向いたことにより、ウイスキー市場が若干衰退してしまいます。
衰退したことにより熟成期間を長く取れるようになるというメリットはありましたが、各企業の収益性を圧迫しました。そのためこの期間のうちに、カナダの蒸溜所は国外の蒸溜所に買収されることが続きました。例えば、アルバータ蒸溜所は、日本のビームサントリー社が持っています。しかしながら、最近はアメリカを中心とした輸出により売上も増えてきており、復活が期待されています。アルバータ蒸溜所は、1946年に北米最大規模のライウイスキー蒸溜所としてカナダ・アルバータ州に設立されました。政府資金の援助を得ながら地元の穀物市場を確立させ、その穀物を原料にした蒸溜酒の製造に乗り出すように政府から要請され、2人の裕福な慈善家であるマックス・ベルとフランク・マクマホンが地方振興に乗り出したことで設立されました。2001年には、それ以前に取得していたビーム社をサントリーが買収したことで、サントリー傘下となりました。アルバータ蒸溜所で製造されているウイスキーは、ライウイスキーに分類されるカナディアンウイスキーであるアルバータです。 他にも、アルバータの銘柄各種や、サントリー ワールドウイスキー碧Aoの原酒などが製造されています。
■クランローヤル(シーグラム社)
クラウンローヤルが造られたのは1939年です。カナダのリカーメーカーである「シーグラム社」によって製造されました。シーグラム社は、1857年に「ジョセフ・E・シーグラム氏」がウォータールー蒸溜所を造ったことで設立されました。
クラウンローヤルは、イギリス国王ジョージ6世夫妻が、イギリスの国王として初めてカナダを訪問することを記念し、国王への贈り物として造られました。
その後、シーグラム社のウイスキーは、貴賓客用として少量しか生産されていませんでしたが、1964年から世界に輸出されるようになり、現在では、カナディアンウイスキーを代表する銘柄になりました。ウォータールー蒸溜所が、1992年に火災で焼失した後、2000年からはディアジア社の傘下となったシーグラム社の「ギムリ蒸溜所(カナダのマニトバ州、別名クラウンローヤル蒸溜所)」が製造しています。「クラウンローヤル」は、1939年にシーグラムによって設立されましたが、2000年にシーグラムは、酒類部門をディアジオとペルノリカールへ売却しました。以降シーグラムというブランド名はペルノ・リカールが使用しています。「クラウンローヤル」は、2000年以降はディアジオが所有するブレンデッド カナディアンウイスキーブランドです。以前は、日本の輸入元であったキリンが日本での販売をしていましたが、2021年に販売を終了しました。2024年現在は、入手が難しくなりつつあります。今後は、MHDが輸入をして頂けるのでしょうか?
ちなみにクラウンローヤルを語る上で「ラサール蒸溜所」というキーワードがよく出てきます。キリンのHPにも記載がありました。しかし、ラサール蒸溜所はクラウンローヤルの試作を行っていた場所で、実際に製造していたわけではないようです。そして、試作段階では600種類以上の銘柄をブレンドし試行錯誤を繰り返しながら完成させたという記録が残っているので、徹底的にこだわって造られたと推測されます。
カナディアンウイスキーの一般的な製法である、ライ麦が主体のフレーバリングウイスキーとトウモロコシが主体のベースウイスキーをブレンドするという方法で造られています。カナディアンウイスキーは、バランスが良くライトな味わいで飲みやすいので、ウイスキー愛好家から初心者まで幅広く楽しめるウイスキーです。
■キリンシーグラム
日本国内で有名だったのは、キリンシーグラムです。今は存在していませんが、1972年にキリンビールとシーバスとシーグラムの3社で設立された会社です。2001年にペルノリカールがシーグラムを買収したことで、2002年にキリンシーグラムは消滅しました。キリンは、その後、キリンビール100%のキリンディスティラリーを設立しました。シーグラムの種類部門は、ディアジオとペルノリカールに吸収されました。さらに、ペルノ・リカールは2001年にシーグラムの資産を購入し、この際に「シーバスリーガル」も手にしています。以降シーグラムというブランド名はペルノ・リカールが使用しています。
■シーグラム7クラウン
カナディアンウイスキーでは、ありませんが、かつて存在したシーグラム社を代表するウイスキーですので触れておきます。バーボンでもない、アメリカン・ブレンデッドウイスキーです。アメリカでは「セブン」と呼ばれています。アメリカのインディアナ州にあるローレンスバーグ蒸溜所で造られていたウイスキーです。商品開発時に用意された十数種類のブレンドの中から7番目のブレンドが選ばれたこと、さらに、そこに王者のしるしであるクラウンをつけ、「セブンクラウン」と名付けられました。日本国内では、セブンクラウンのブランドは、キリンシーグラム時代からの繋がりで、2021年4月まではキリンビール、それ以降はディアジオジャパンが所有しています。2021年5月1日より、ディアジオジャパンは、以下を含むプレミアム(リザーブ)ブランドの輸入、マーケティング、流通、販売を開始しています。I.W.ハーパー、キャプテンモルガン、ケテルワン、ゴードン、ゴディバ、ザシングルトンダフタウン、シーグラムセブンクラウン、J&Bレア、シロック、タンカレー、ドン・フリオ、ピムス、ベイリーズ、ロイヤルロッホナガー、ロンサカパなどが主な取り扱いブランドになります。2021年4月、キリンとの合弁が解消され、キリン・ディアジオで取り扱っていたブランドはディアジオジャパンに移行、キリン・ディアジオは「ディアジオジャパンアドミニストレーションサービシーズ株式会社」に商号変更されました。ただし、キリンとの業務提携、および輸入代行に関しては2023年現在もこれまで通り継続しています。製造は、「7 Crown Distilling Company」とありますが、ブレンデッドですので、引き続き、現在はMGPI傘下のローレンスバーグ蒸溜所なのか、ディアジア社の傘下となったシーグラム社の「ギムリ蒸溜所」なのか分かりません。
セブンクラウンは、禁酒法が解除された翌年の1934年に発売して以来現在まで、アメリカでウイスキーのトップセラーを続け、多くのアメリカの人々に愛されてきたのです。したがってセブンクラウンは、その飲まれ方も自由そのもので、ストレートやオンザロックはもちろん、オレンジジュース、コーラなど、自分の好きなソフトドリンクで割って飲むのがセブン、アメリカ流です。アメリカではただ、「セブン」と呼ばれ、その印象的な「7」のマークとともに、アメリカ風俗を語る上で欠かせないお酒となっています。
・ローレンスバーグ蒸溜所
ローレンスバーグ蒸溜所は、ケンタッキー州ローレンスバーグ(ワイルドターキー蒸溜所、フォアローゼス蒸溜所などがあります)に、1847年にロスビル蒸溜所として設立されました。1841年に生まれたジョセフが成人して就職したのが、グラナイト・ミルという製粉会社でシーグラムの前身です。製粉所には、蒸溜所が併設されていました。その会社の3人の創業者のうちの一人の娘と結婚したジョセフは、義理の父親と共に共同創業者たちの株を買い集め、1883年に自身の名前を冠した「ジョセフ・シーグラム製粉所・蒸溜所」に会社名を変更します。禁酒法施行後の1933年にジョセフEシーグラムアンドサンズが買収し、ジョセフ・E・シーグラム&サンズ社は、サミュエル・ブロンフマンが設立したディスティラーズ社に1928年に買収され、シーグラム社と社名を変更しています。その後2001年にペルノリカールが買収しました。2007年にローレンスバーグディスティラーズ LLC(LDI)になり、2011年にMGP蒸溜所(Midwest Grain Products、1941年設立、多くのクラフト蒸溜所へ供給)が買収するまではCLファイナンシャル(トリニダードトバゴ最大の非公開複合企業)の所有下でした。現在、蒸溜所の消費者向けブランド側はロス&スクイブ蒸溜所(リーマス、ロスビルユニオンなどの’ウイスキー)として知られることになりますが、バルク蒸溜酒(簡単にいうと、樽販売、業務用)側はインディアナ州のMGPI(エムジーピー・イングリーディエンツ、MGP Ingredients Inc、蒸溜酒・ブランドスピリッツおよび食品原料を生産・供給する会社)として知られています。
■カナディアンクラブはサントリーへ
もう1社有名なのは、カナディアンクラブです。実は、サントリーの傘下です。一時は、カナディアンクラブを造っている「ハイラム・ウォーカー社」は発展を続けますが、1980年代にイギリスの大手酒類メーカーの「アライド社」と合併、2005年には「ペルノリカール社」が「アライド社」を買収します。この時、ペルノリカール社はアライド社の事業を解体し、「ハイラム・ウォーカー蒸溜所」と「C.C.(カナディアンクラブ)」のブランドは「ジム・ビーム」で有名なビーム社に売却されます。更にその後、2014年にサントリーホールディングス社が「ビーム社」を買収、かくして現在「ハイラム・ウォーカー蒸溜所」はサントリーの子会社「ビームサントリー」の傘下となっています。
ビジネスマンであったハイラム・ウォーカー氏が、、1856年にオンタリオ州ウインザーに、ハイラムウォーカー蒸溜所を設立しました。アメリカでは禁酒運動が盛んに行われていたこともあり、ウォーカー氏は隣国のカナダに目をつけ、ウイスキーの製造を始めたのです。1920年代の禁酒法施行を考えれば、先見性が高く、ウォーカー氏によって作られたカナダ初のウイスキーであるクラブウイスキーは順調に販売本数を伸ばしました。
ウォーカーは、ライ麦由来の風味が心地よい爽快なタッチのウイスキーを誕生させます。当時のライウイスキーやバーボン、さらにはスコッチ、アイリッシュにもない新しい感覚のテイストは、アメリカ東部を中心にした紳士の社交場「ジェントルメンズクラブ」で洗練された品格のあるテイストとして人気を獲得しました。彼はそこから「クラブ・ウイスキー」と命名しました。カナディアンウイスキー初のブランド名を冠した製品となりました。この高い評価はカナダのウイスキー事業者へ多大な影響を与え、現在につづくカナディアンウイスキーが全体的に抱いている香味特性、爽快なタッチのテイストの確立へとつながったのです。しかし、クラブウイスキーの台頭に危惧したアメリカは、クラブウイスキーの名称をアメリカンウイスキーと区別できるように変更することを指示しました。その結果、クラブウイスキーは現在のカナディアンクラブに名前を変えることとなります。禁酒法の施行により、カナディアンクラブの人気と知名度は大きく高まり、禁酒法撤廃までのカナディアンクラブの歴史は、カナディアンウイスキーが発展した歴史そのものとなりました。現在は、ビーム社の買収とサントリーによるビーム社の買収を経て、サントリーがブランド権を握っています。
■カナディアンウイスキーの定義
カナディアンウイスキーと呼ばれるための定義は、カナダの法律で、以下の条件を満たしている必要があります。
①穀物を原料に、麦芽などで糖化、酵母などで発酵し、蒸溜したもの
②カナダ国内で、700リットル以下の木樽で3年以上熟成させること
③アルコール度数40%以上で瓶詰めすること
④糖化・蒸溜・熟成はカナダ国内で行うこと
⑤カラメルまたはフレーバリングを添加してもよい。
特徴的なのは5番目のフレーバリングの添加が許されていることです。ここでいうフレーバリングとは、香味を付与するために許されているカナディアンウイスキー以外のスピリッツやワインなどのことです。使用量には制限がありますが、この基準があることで、さまざまなフレーバーのカナディアンウイスキーが生み出されています。クラウンローヤルでは、メープルやアップルフレーバーなどがあります。
具体的には9.09%までカナダ産以外のウイスキーを加えられるため、バーボンや、ワイン、ラムなどもブレンドが可能です。
カナディアンウイスキーの多くは2つの原酒をブレンドさせて造られています。
●ベースウイスキー
連続式蒸溜器を使用しマイルドでクセが少ないのが特徴で、グレーンウイスキーに近いウイスキーです。ベースウイスキーは全てフレーバリングウイスキー用に使用されるため、原酒のまま世に出ることはありません。ベースウイスキー内のフレーバリングウイスキーの比率は高くても30%ほどで、ベースウイスキーが大半を占めています。
●フレーバリングウイスキー
ライ麦や大麦麦芽、トウモロコシを原料として造られるウイスキーで、しっかりした味が特徴です。
(5)ジャパニーズウイスキー
日本産のウイスキーです。。日本ウイスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝が1918年にスコットランドへ留学してウイスキー製造を学んだため、スコッチウイスキーの製造スタイルが踏襲されています。
■ジャパニーズウイスキーの定義
日本には酒税法が定めるウイスキーの定義はありますが、それとは別に、洋酒製造メーカー数十社が加盟する日本洋酒酒造組合が、2021年の2月中旬、そのホームページ上でジャパニーズウイスキーについての定義を発表しました(同4月1日施行)。また、「ジャパニーズウイスキー」として認める製造上の基準について定めています。日本には酒税法が定める定義はありますが、それは表示や製法について細かく規定したものではなく、ジャパニーズウイスキーにスコッチやアイリッシュ、アメリカンのような明確な定義が存在していないため、海外で「日本産ではない」ジャパニーズウイスキーが横行する温床にもなっていました。
・「ウイスキーにおけるジャパニーズウイスキーの表示に関する基準」(日本洋酒酒造組合)
「ジャパニーズウイスキー」と表示する、あるいは使用する際の定義であって、「特定の用語の使用基準」ということになっています。それは「ジャパニーズウイスキー」とあえて名乗らなければ、その限りではないということです。いっぽうでジャパニーズウイスキーと名乗らなくても、日本を想起させる人名や地名、名勝地、山岳や河川の名前、国旗、元号などを、ジャパニーズウイスキー以外のウイスキーに使用することを認めないともしています。
「ジャパニーズウイスキー」の表示に関する定義
①原料として用いてよいのは麦芽、穀類、日本国内で採水された水のみ。
②仕込みには必ず麦芽を使用すること。
③糖化、発酵、蒸溜は日本国内の蒸溜所で行うこと。
④蒸溜の溜出時のアルコール度数は95%未満とする。
⑤熟成は容量700リットル以下の木製樽に詰めて、樽詰め日の翌日から起算して3年以上を日本国内において行うこと。
⑥瓶詰めは日本国内において容器詰めし、その場合のアルコール度数は40%以上とすること。
⑦瓶詰め(容器詰め)に際して、色調整のためのカラメルの使用は認められる。
以下、補足です。
・「後発である以上、先発のスコッチやアイリッシュの基準を超えるものを策定したい」と、洋酒酒造組合が意気ごむように、スコッチ以上にある意味、厳格な定義となっています。
・特に瓶詰めは日本国内においてのみ可とするという一文は、スコッチの先を行くものといえるかもしれません。スコッチはシングルモルト以外、バルク(物流用語で樽)で輸出して海外でボトリングしても、スコッチと名乗れるからです(アイリッシュもアメリカンもどこでボトリングしなければという規定はありません)。海外のワインなどは、バルクで輸入して、日本国内で瓶詰しているものがほとんどのようです。
・熟成はアイリッシュやカナディアン同様、木樽を謳っていますが、あえてオークとしなかったのは、日本には桜や栗、杉といった、まだまだ可能性を秘めた木材があり、その可能性を排除しなかったものと思われます(スコッチ、アメリカンはオークのみ)。
・瓶詰めも、あえて容器という表現を使っているのだとすれば、地球温暖化防止などを見据えた、いわゆるカーボンニュートラルに向けた未来志向の表現なのかもしれません。
■ジャパニーズウイスキーの始まり
●ウイスキーの伝来
「南蛮酒」と呼ばれる西洋の酒が日本に伝えられたのは、種子島への鉄砲伝来(1543年)やキリスト教宣教師の来訪(15499年)以降の室町時代とされます。この時の「南蛮酒」は、ポルトガルワインといわれています。1549年にイエズス会の宣教師である「フランシスコザビエル」が鹿児島に上陸した時の献上品の中に「ポルトガルワイン」が入っていたとの記載があります。その時に通訳を務めたジョアン・ツズ・ロドリゲスの「日本教会史」には、そのワインを「貴久に味わってもらった」と明記されています。この「貴久」とは、当時の薩摩の守護大名・戦国大名の「島津貴久」です。
日本へ初めてウイスキーが伝えられたのは、江戸時代末期の1853年にペリー提督が来航した、いわゆる「黒船来航(ペリー来航)」の時が最初とされています。この時スコッチウイスキーとアメリカンウイスキーが持ち込まれたと記録に残されており、交渉に当たった日本側の役人や通訳に、ウイスキーが振る舞われました。翌1854年の2度目の来航時には、第13代将軍、徳川家定にアメリカンウイスキー1樽が献上されたようです。この時、江戸幕府とアメリカとの間で結ばれたのが日米和親条約で、これによって250年続いた江戸幕府の鎖国政策は終わりを迎えました。
ウイスキー文化研究所代表でウイスキー評論家の土屋守氏は、この時のスコッチウイスキーは「スミスのグレンリベット」で、アメリカンウイスキーは「ミクターズ」と推定されています。
●ウイスキーの拡大
アメリカ初代総領事のタウンゼント・ハリス(1804~1878)は、1856年に日米修好通商条約を結ぶために下田に来航した時にウイスキーを含む酒類を持ち込み、また当時中国にあった商社を通じて酒類を取り寄せ、交渉の過程で酒席を設けています。また欧米諸国に派遣された使節団や留学生らも洋酒に親しむようになっていました。日米通商条約の締結により1859年に開港した横浜や長崎などの外国人居留地では、ジャーディン・マセソン商会(前身は東インド会社、グラバー園のグラバー氏は元社員、現在はマンダリンオリエンタルホテルなどの営業)、デント商会(ジャーディン・マセソン商会のライバル企業、1866年の恐慌の影響で1867年倒産)といった大手商社のほか、大小さまざまな企業が進出し、ウイスキーを初め、これら日本に住む外国人のために輸入されていましたが、幕末から明治初期にかけて次第に珍しくて貴重な飲料として知られるようになり、輸入商社や薬種問屋でビールやブランデーなどとともに、日本人向けに輸入されるようになりました。
ウイスキーを扱った商社としてはベイカー商会、タサム商会、キャリエル商会、シュルツ・ライス商会、カルノー商会などが知られていますが、その後もエフ・レッツ商会、コードリエ商会をはじめとする多くの会社が洋酒の取扱いを行っています。これらの企業が現存しているかは不明ですが、その多くは撤退・廃業しているようです。また問屋では横浜の吉田豊吉が興した「尾張屋(不明)」などが有力であったとされます。現在の大手商社の「国分(現存、イーガンズやトマーティンなどの輸入元)」が食品販売業に進出したのは明治10年代からで、明治18年には磯野計が「明治屋(現存、アーリータイムズなどの輸入元)」を創業しています。明治以降、本場のウイスキーも輸入品として入ってきましたが、やがて舶来嗜好の流行にのった薬用葡萄酒などとともに、混成・イミテーションウイスキーともいえる国産洋酒が造られるようになっていきました。これは醸造アルコールに香料や砂糖を加えたもので、時には少量のスコッチを加える場合もありましたが、本来のウイスキーとはかけ離れたものでした。 輸入品の関税が不当に低く抑えられていたため(不平等条約)、安い輸入アルコールが原料として用いられたもので、洋酒類を模造する商売は利潤が高かったといいます。洋酒製造を手がけた会社としては、1871(明治4)年に薬種商の瀧口倉吉がおこした「甘泉堂」、生産量が多かった神崎三郎兵衛、蜂印甘味葡萄酒で有名な神谷伝兵衛(現オエノングループ、神谷バー)、大阪では橋本清三郎、小西儀助(現在のコニシボンド、小西儀助の甥にあたるのがのちに寿屋(サントリー)を立ち上げる鳥井信治郎)、横山助次郎(ビール製造、初のビールの輸出、「日の出ビール」を中国の上海に輸出)などの会社があり、明治初期から明治30年代にかけて、コンパウンド(調合)ウイスキー造りに参入する事業者はかなりの数に達した。当初は、酒屋さんはなかったので、輸入の洋酒類は、薬種商での取り扱いが多かったようです。
この時代の日本人で、ウイスキー造りにひとつの足跡を残した人物として、アドレナリンの発見で有名な薬学・生化学者の高峰譲吉(1854~1922)の名を挙げることができます。母方の実家が石川の酒造家であった高峰は、1890(明治23)年に元麹(もとこうじ)改良法の研究が認められてアメリカに招かれ、モルト(大麦麦芽)を用いずに麹を使ってトウモロコシからアルコールを造る方法の実験に成功した。また小麦のフスマを原料に元麹をつくり、ウイスキー造りを行う方法を開発しました。現地(イリノイ州)に法人を設立し生産する準備を進めたが、麦芽生産業者などの妨害により挫折してしまいました。この実用化が広がっていれば、バーボンを始めとするアメリカのウイスキー造りは、現在とは異なるものへ変化を遂げていた可能性もあります。高峰は1894(明治27)年に消化酵素であるタカジアスターゼを発見しました。これはデンプンを分解(糖化)する代表的なアミラーゼ(酵素)であり、グルコース、麦芽水飴、アルコールやウイスキー製造への利用のみならず、製パンや胃腸薬などに広く利用されることになりました(高峰は三共製薬の創業者)。
■ウイスキーの国内生産の動き
国内では長い歴史をもつ日本酒醸造元や、焼酎の蔵元が広く存在していましたが、ここを基盤として明治以降、アルコール製造も産業化の道を進みました。1899(明治32)年に通商の改定条約実施の詔書が発布され(不平等条約の解消)、アルコールの輸入税が増加されたことと、1901(明治34)年に酒税が改定、酒精含有飲料税法が発布されたことで、模造洋酒製造者の採算は悪化し、安価な輸入アルコールに頼っていた中小の洋酒業者は撤退を余儀なくされてしまいました。
かわって台頭したのが、国産のアルコール蒸溜業者で、当初は大麦、トウモロコシ、サツマ芋などが原料に用いられましたが、やがて台湾産の切干甘藷(かんしょ、さつまいも)が安く手に入るようになり、これで大量の醸造アルコールが造られるようになりました。さらに日清・日露両戦争の頃に、台湾で盛んになった製糖事業で生じた廃糖蜜(モラセス)から生産される醸造アルコールが輸入され、国内製造者は競争を強いられることになりますが、需要の拡大もあって産業として発展していきました。
日清戦争後の1895(明治28)年頃より、アルコール製造のためのイルゲス式連続式蒸溜機(当初は、ほぼイルゲス式)が日本へ輸入されており、1910(明治43)年に愛媛県宇和島で連続式蒸溜機を使って、切干甘藷(かんしょ)から新式焼酎(ハイカラ焼酎)が造られています。代表的メーカーとしては、神谷伝兵衛が関わったアルコール工場が1900(明治33)年頃より北海道旭川(現オエノングループ)で稼働しました。さらに神谷酒造では1906(明治39)年にウイスキー造りも始めています(旭川工場はその後、合同酒精へと発展、現オエノングループ)。
大阪では摂津酒造(現宝ホールディングス)が1907(明治40)年にアルコール製造を開始、1911(明治44)年から自社製アルコールを使ったウイスキー造りを始めています。摂津酒造は薬種業者にもアルコールを販売、または委託を受けてウイスキーの製造などを行っており(寿屋の赤玉ポートワインやヘルメスウイスキーなども当初中身は摂津が造っていた)、1913(大正2)年には年間240石(約4万3200リットル)を造る最大手の会社に成長しています。当時、「東の神谷、西の摂津」と並び称されました。
1902(明治35)年に日英同盟が締結されて以降、本場のスコッチの輸入が増加し、一般大衆の酒類に対する知識も向上しました。本格的なウイスキーの製造を実現させたのは、明治40年代以降、甘味葡萄酒の「赤玉ポートワイン」(1907年発売)で成功をおさめた寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎(1879~1962)でした。
■鳥居信治郎(サントリー)と竹鶴政孝(ニッカウヰスキー)
●鳥居信治郎
1892年鳥居信治郎は、13歳で薬種問屋小西儀助商店(現・コニシ)へ丁稚奉公に出ました。この時に小西儀助商店で扱っていた洋酒についての知識を得たようです。
1899年20歳で大阪市西区靱中通(現・靱本町)で鳥井商店を起こしました。1906年鳥井商店を壽屋洋酒店に改称しました。スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収し、スペイン産のワインを販売するが売れなかったため、日本人の口にあう甘味果実酒の試作を始めます。
1907年「赤玉ポートワイン」を発売しました。
1919年3月10日 大阪市西区七条通(現・港区海岸通)に「赤玉ポートワイン」の瓶詰専用工場となる築港工場を開設(現・サントリー大阪工場)しました。原料ワインはスペインやチリから輸入しました。
1921年大阪市東区住吉町(現・松屋町住吉)で株式会社壽屋を設立。大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長しました。
●竹鶴政孝
・1923年(大正12年)6月 竹鶴政孝が壽屋に入社しました。ウイスキーの製造を学ぶために摂津酒造(TVマッサンでは住吉酒造)からスコットランドに派遣(1918~1920)された竹鶴政孝(1894~1979)を1923年に会社に迎え入れ、京都にほど近い大阪・山崎の地に蒸留所を建設しました(現山崎蒸溜所)。
・1924年に竣工した山崎蒸溜所で造られたウイスキーは、1929年に「サントリーウ井スキー」、通称白札として発売されました。これが我が国初の本格ウイスキーであり、山崎蒸溜所の建築に着工した11923年は日本の「ウイスキー元年」ともいわれています。
・戦前のウイスキー造りでは寿屋のほかに東京醸造、大日本果汁(現ニッカウヰスキー)が有名です。1924年に神奈川県藤沢市に創業した東京醸造(1955年撤退)はリキュール製造で知られましたが、1937年に国産第2号といわれる「Tomy’s Malt Whisky」(トミーモルトウ井スキー)を製造し、明治屋を通じて販売を行っていました。
・寿屋を退職した竹鶴政孝が1934(昭和9)年に興した大日本果汁(現ニッカウヰスキー)は、スコッチウイスキーの造りにならい、同様の風土を求めて北海道余市に工場を建設して、2年後よりウイスキーの生産を開始しました。1940(昭和15)年には第1号となる「ニッカウ井スキー」を発売しています。ウイスキーが熟成して販売できるまでの期間の経営を支えた「アップルワイン」は、1938年に誕生しています。
・また宝酒造の「キングウイスキー(現在も販売中)」も高い評価を得て、1943(昭和18)年には当時雑酒に分類されていたウイスキー初の等級付けで、サントリー、ニッカとともに本格ウイスキーの1級指定銘柄に認定されています。
■独自の進化と深化を遂げた日本のウイスキー
・第二次世界大戦の頃
第二次世界大戦の頃は海外からの洋酒輸入の停止や、酒類の公定価格設定、配給制度といった状況にありましたが、アルコール飲料は終戦直後から多くの人に求められ、様々な酒類が世の中に氾濫しました。闇取引や粗悪な酒類の横行によるアルコール中毒者が急増したのもこの時期で、「カストリ」、「バクダン」などと呼ばれた焼酎や、アルコールに香料や色付けをしただけの製品もウイスキーとして流通していました。また戦後は東洋醸造(現旭化成に吸収)、大黒葡萄酒(のちのメルシャン、現キリン)、本坊酒造(マルスウイスキー)など多くの企業がウイスキー事業に参入し、アルコール製造大手の協和醗酵(現キリングループ)などもウイスキーを扱うようになりました。
・昭和のウイスキーブーム(1971~1983、水割りブーム)
ジャパニーズウイスキーは戦後の経済成長とともに消費量は右肩上がりに成長してきました。
消費量は回復しましたが、洋酒に対する公定価格が廃止されたのは1949(昭和24)年で、実際にウイスキーの自由販売が認められたのは翌1950年のことです。以後ウイスキー原酒の混和比率の低い3級ウイスキーを中心に自由競争時代へと突入します。中小の生産者の撤退期を経て、寿屋(現サントリー)、大黒葡萄酒(オーシヤン、現キリン)、大日本果汁(ニッカ、現アサヒ)が大きなシェアを占めるに至り、昭和30年代以降の高度経済成長時代には、3社の名を冠したバーが全国に急増、ウイスキーは大ブームとなりました。激しいシェア争いが続き、この頃「ウイスキー戦争」なる言葉も生まれています。
・トリス(寿屋、1963年~サントリー)
寿屋の『トリスを飲んでハワイに行こう』キャンペーン(1961年)など、マスメディアを利用して消費の拡大が図られたのは日本の特徴といえますが、家飲みと日本料理屋で和食にウイスキーを合わせる「二本箸作戦」、ウイスキーのボトルキープ、水割り文化の浸透など、日本独自の愉しみかたが次々と提案されていったのも、日本のウイスキーの大きな特徴です。オンザロックの流行には、冷蔵庫の普及により、家庭で手軽に氷が作られるようになった社会事情も影響しています。
・オールド(サントリー)
1971(昭和46)年にはウイスキーの貿易が自由化され、数量、取引金額に制限なく輸入ができる時代となりました。1972(昭和47)年には、国際的な総合酒類メーカーのシーグラム社の資本参加で生まれたキリン・シーグラム社(現在のキリンディスティラリー)が事業に加わっています。高い関税率にもかかわらず高級志向でウイスキーの輸入量は増加し、翌1973年には特級ウイスキーの消費量が2級に追いつき、それ以降は逆転しました。寿屋から改称したサントリーは「オールド」で販売量世界一(1980年に年間約1,240万ケース出荷)を達成し、日本の代表的メーカーという立場を確立していきました。1976年のアメリカ建国200年祭の頃にはバーボンの輸入量が増加、1980年代には日本酒の地酒ブームと同じく、「地ウイスキー」が注目されることになりました。
・ウイスキー冬の時代(1984~2008)
1983年度には、ウイスキーの課税数量、つまり国内消費量が約38万キロリットルと、ピークを迎えました。
ひとつの原因は、1983年のウイスキー価格の引き上げです。1978年から1983年の増税により小売価格が約30%以上高騰したことで値ごろ感が失われました。その後ウイスキー類の消費量は1983年をピークに減少に転じ、乙類(本格)焼酎にも追い抜かれ、ビール、焼酎、日本酒に水をあけられてしまいました。課税数量でみても1983年度を頂点に、2008年度はピーク時の2割程度にまで消費量が落ち込みました。また、ウイスキーの質の低下、酒税の安価であった焼酎やチューハイの登場によりウイスキーの人気離れが加速しました。これは国税庁が発表する統計数字で、当時はウイスキー類としてウイスキーとブランデーは一緒でしたが、9割以上はウイスキーの出荷量です。
1989年の大幅酒税法改正(級別制度も廃止)の年には、早くも23万キロ台(ピーク時の約60%)まで落ち込み、その後もバブル崩壊によって坂道を転げ落ちるように、ウイスキーの消費量は落ちていきました。21世紀を迎えた2001年には11万キロ台(ピーク時の約30%)、そして2008年にはピーク時の約20%の7万5000キロリットルほどまでにウイスキーの消費量は減少してしまいました。まさに、天国と地獄です。
1983年のピークから2008年までの25年間続いたウイスキーのダウントレンドの間には、バブル崩壊と金融ショック、そして日本酒やワインのブーム、さらに乙類焼酎(本格焼酎)のブームもありました。消費者の嗜好が多様化するなかで、戦後の経済成長とともに歩んできたウイスキーが、そうした変化に対応できなかったということなのかもしれません。
当時のウイスキー不人気は世界的な傾向で、1980年代と90年代はスコッチの生産者も減産を余儀なくされるなど、ほぼ絶滅危惧種入りの雰囲気さえありました。
・平成のウイスキーブーム(2008~、ハイボールブーム)
2008年で底を打ったあと、ウイスキーは再び上昇気運に転じています。2013年には10万キロを超え、10年経った2018年にはピーク時の半分近くの17万キロリットルまで回復しました。そして現在の空前のジャパニーズウイスキーブームです。
これは国内消費量だけでなく、海外輸出の統計を見ても顕著だ。国税庁が毎年発表している輸出統計を見ると、2010年のウイスキー輸出金額が17億円だったのに対し、2020年は年間271億と、約16倍となっています。この年初めて清酒を抜いて日本産酒類として、ウイスキーが第1位に躍り出ました。ちなみに同じ蒸留酒である焼酎は、わずか12億円と、ウイスキーの約20分の1ほどです。全世界がコロナ禍の中にあったことを考えると、この271億円という数字は驚異的な数字ですが、勢いは止まらず、2021年は約460億円、2022年は560億円と好調を維持しています。日本のお酒全体の輸出金額は2021年に初めて1,000億円を突破し、2022年は1,392億円で前年比21%の増加を達成しています。これほど急拡大の成長を支えているのは、最も輸出金額が高くなっているジャパニーズウイスキーです。輸出金額の拡大からジャパニーズウイスキーは、世界で認知度・人気が高まっている証拠でもあります。
きっかけのひとつは、サントリーが2007年頃からハイボールで飲むことを進めるCMを制作しました。有名な「サントリー角」のCM「ウイスキーがお好きでしょ♪」のフレーズは、今でも多くの人が聞いたことがあると思います。そして、2008年頃から、静かにくすぶっていたシングルモルトブームや「ハイボール」ブームなどで再びウイスキー需要が高まり、奇跡的なV字回復を果たしています。2014年9月からはNHKの連続テレビ小説『マッサン』の影響もあり、日本におけるウイスキー市場は空前の活況を呈しています。
一方、シングルモルトなどの高級ウイスキーも世界的に好調で、ウイスキー冬の時代の減産がたたって深刻な原酒不足を起こしました。品薄になった国産シングルモルトの買い占めが始まり、エイジ記載の国産シングルモルトが相次いで販売終了を迎えるという事態になりました。ウイスキーにとっては天国から地獄、そして急回復しすぎで困るという、ジェットコースターのような時代です。
■令和のウイスキーブーム(2019~、グローバル)
・ウイスキー業界のグローバル展開
世界的な貿易自由化の流れに沿って、1989年の大幅酒税法改正(級別制度も廃止)により酒税の大幅変更が実施されたことで、本場のスコッチなどの輸入品がより身近となりました。大部分の製品はブレンデッドウイスキーですが、シングルモルトにも目が向けられるようになり、味わいや個性とともに、その造りや歴史に関心を寄せ、愉しむ人々が増え続けています。
日本のサントリー、ニッカ、宝酒造、キリンといった大手メーカーは、それぞれ海外の蒸留所のオーナーにもなっていますが、国籍や酒類といった枠を越えて多分野で活動する巨大企業が世界中で多く誕生していて、ウイスキー製造者の合理化や統合、国際化はこれからも、ますます盛んになっていくと思われます。ジャパニーズウイスキーに関しては2000年以降、海外のスピリッツコンテストで優秀な成績を収めており、世界的な認知度と評価の高まりを見せています。
またベンチャーウイスキー(会社名、イチローズモルト)が埼玉県秩父市に蒸留所を建設し、2008年から生産を始めたことも大きな話題となりました。さらに2014年にはサントリーがアメリカのビーム社を1兆7000億円で買収し、大きなニュースとなりました。その結果ビームサントリー社が誕生し、サントリーは、ディアジオ(英)やペルノリカール(仏)と並ぶ、世界有数のプレミアムスピリッツメーカーとなっています。
さらに世界的なクラフトウイスキー、クラフト蒸溜所ブームを受けて、日本国内にも2016年頃から相次いでクラフト蒸溜所が誕生し、空前のウイスキーブームに沸いています。現在、計画段階のものも入れると、日本のクラフト蒸溜所は30近くになっています。
今まさに、日本は空前のウイスキーブーム、クラフト蒸溜所ブームに沸いているといっても過言ではない状況です。
クラフトブーム(少量生産、小さな蒸溜所、こだわり)
この4〜5年で急激に蒸溜所が増えた理由、ジャパニーズ人気、クラフトブームが到来した理由についてふれてみます。
ジャパニーズクラフトの歴史は、ベンチャーウイスキーの秩父蒸溜所に始まったといえます。肥土伊知郎が同社を立ち上げたのが2004年で、2007年に埼玉県秩父市のみどりが丘工業団地内に土地を取得し、秩父蒸溜所を創業しました。実際に製造免許が下り、生産開始となったのは翌2008年の2月です。まさに、日本のウイスキーのどん底の時代です。しかしウイスキー消費の上昇気運に乗り、あっという間に急成長を遂げました。
実はクラフトウイスキー、クラフト蒸溜所という言葉が使われ始めたのは、2013年以降のことで、秩父が創業した頃は、そんな言い方はまだ定着していませんでした。これはジャパニーズではないですが、スコッチのキルホーマン蒸留所が2005年にアイラ島に創業した時、クラフトではなくマイクロディスティラリーといわれました。単に極小規模だから、マイクロです。では、いつ頃からクラフトという言葉が使われ出したのだろうか。それにはスコッチを見る必要があります。
■近年の動向
■スコッチウイスキーの回復
スコッチは1970年代後半をピークに、ジャパニーズと同じように大低迷期を経験しました。その間に蒸溜所の統廃合、企業買収・合併の嵐が吹き荒れましたが、ミレニアム(2000年)を底に、日本より早くウイスキー出荷量が上昇に転じました。しかし、業界全体では大規模蒸溜所の寡占状態が続き、キルホーマン以外にマイクロ蒸溜所の参入するチャンスはないと考えられていました。
新規参入を阻む最大のネックは、スコッチには容量2000リットル(正確には400ガロン、約1800リットル)以下のスチルを認めないという不文律が存在したことです。今では最低2000リットルというのは理に適っている数字ですが、もっと小規模でやりたいというクラフト蒸溜所にとっては、死活問題です。そこで2010年に「スコッチ・クラフト・ディスティラリー・アソシエーション」が組織され、この2000リットルの撤廃に向け、ロビー活動が開始されました。関税当局が約200年近く言い続けてきた、その不文律に終止符を打ったのが2012年で、翌2013年から続々とスコッチにクラフト蒸溜所が誕生しました。その数、現在までに約60です。
同じことは、隣のアイルランドでも起きています。2014年頃まで、アイリッシュには北のブッシュミルズと南の新ミドルトン、そしてクーリー、キルベガンの4つの蒸溜所のみでしたが、現在では40近くにまで増えています。そして、その全世界的なクラフトの波が日本にやってきたのが、2015〜2016年頃のことです。その嚆矢(こうし、物事のはじめ)となったのが厚岸やマルス津貫(つぬき)、そして安積(あさか)、ガイアフロー静岡などです。ベンチャーウイスキー秩父に遅れること、7~8年です。その後のジャパニーズクラフトの勢いは、今さら言及する必要もない状況です。
■アメリカンシングルモルトの登場
世界的なクラフトウイスキーブームには、ひとつ大きな特徴があります。それは多くの蒸溜所がシングルモルトを造ろうとしていることです。今日のクラフトブームの先駆けとなったのはアメリカのクラフトムーブメントで、現在アメリカには「クラフト」と呼べる蒸溜所が2000ヵ所くらいあるといわれますが、当初は多くのクラフトでバーボンやコーン、ライウイスキーを造っていました。しかし現在アメリカで主流になっているのは、シングルモルトを造るクラフト蒸溜所です。
アメリカンの定義でモルトウイスキーというのはありますが、必ずしもシングルモルトについては定義されていません。モルトウイスキーはスコッチやアイリッシュ、ジャパニーズと違って、アメリカの定義では原料に51%以上のモルト(麦芽)を使えばよいことになっています。他の国のモルトウイスキーが麦芽100%なのとは大違いです。これでは麦芽100%で造ろうと思っているクラフトにとって不利になります。そこで現在アメリカでは新たにシングルモルトの定義策定に向け動いています。
それ以外の国々のクラフトムーブメントを牽引しているのも、やはり、同様に何といってもシングルモルトです。1990年代半ばからミレニアム(2000年)にかけて、ブレンデッドに代わる酒として、シングルモルトが登場しなかったら、今日のクラフトウイスキーブーム、クラフト蒸溜所人気はなかったかもしれません。それ以前のように、ブレンデッドのみが市場を席巻する状態だったら、クラフトは登場することはなかったでしょう。なぜならば小資本で、ブレンデッド事業に参入することは不可能だからです。
■環境配慮とツーリズム、地方活性がキーポイント
ウイスキーは画一性から多様性を求めて、必然的にシングルモルトという世界に行き着きました。シングルモルトがなかったら、今日のような世界規模のウイスキーブーム、とりわけクラフトブームはなかったでしょう。20年前と比べて、ますます情報化社会が加速して、人々のライフスタイルも嗜好も多様化しました。世界中どこにいても、今では瞬時に蒸溜所の情報にアクセスできますし、ボトルも買えます。どんな人里離れた辺鄙な場所に蒸溜所を建てたとしても、それがデメリットになることはありませんし、ネットを通して、どこにいてもボトルが買えるようになっています。かつての消費地に近い、大都市圏周辺が有利という常識は、現在の情報化社会、クラフトムーブメントでは、まったく通用しません。
それに伴って、ウイスキー造りの技術革新、地球環境に配慮したSDGs(持続可能か開発目標)、サステナビリティ(持続可能性)への取り組みも、これからのクラフトウイスキーのキーワードとなってくるでしょう。さらに現在のクラフトブームにはもうひとつ、地方経済活性化、蒸留所ツーリズムの可能性も大いに指摘されています。日本酒ツーリズムやワインツーリズムはありますが、日本酒もワインも季節生産であり、通年生産しているわけではありません。しかし、ウイスキーは年中生産はしており、蒸溜所は稼働しています。昨今、ウイスキーが関係するイベント、蒸溜所見学、現地でしか購入できない限定品など非常に多くなっています。
さらにいうと醸造のプロセスは外からは見えづらいです。どこも同じと言ってしまえば、それまでです。ただ、ウイスキーは通年、生産の現場を見ることができますし、蒸溜所はどれひとつとして同じものはありません。そして人材雇用も、さらに原料の生産者も含めて、多くの人と、地場産業がウイスキー造りに関わってきます。クラフト蒸溜所ブーム、クラフトウイスキー人気というのは日本に限らず、そうした世界規模のトレンドと密接に関わっています。
■ウイスキーの市場状況
現在のウイスキーの市場の状況を独断と偏見で整理してみました。そんなには間違っていないと思います。価格の順番で整理してみました。キーワードは、流通数(レア度)、プレミア価格(定価か否か)です。
これからウイスキーを飲まれる方は、少々高値でも、有名な熟年数の多いウイスキーが、ウイスキーの美味しさを感じることが出来て、ウイスキーを好きになって頂けると思います。
①メジャーブランドのリーズナブル商品
・入手が容易で安価
・概要:だいたいいつでも、定価で購入できる有名ブランドの定番ウイスキーです。好みによりますが、そんなに美味しくはないです。
・酒小売店、量販店:ある
・卸酒屋:入る
・新品ネット:多い
・二次流通:多い
・プレミアム価格:定価・卸値で可能
・価格帯:1,000円程度~5,000円程度
・例:有名ブランドの定番商品が多いです。サントリー(オールド、トリス、角瓶、REDなど)、ニッカウヰスキー(ブラックニッカ、スーパーニッカなど)、海外有名ブランド(ジムビーム、ジャックダニエル、カティーサーク、ホワイトホースなど)のリーズナブルなウイスキーです。
・美味しさ:美味しいウイスキーもありあすが、好みによりますが、口に合わないウイスキーも多いです。
②マイナーブランドのリーズナブル商品
・入手がタイミングによっては容易で安価
・概要:新興蒸溜所などの新用品の発売直後など、タイミングによっては、入手が容易で安価ですが、流通量は少ないので売れ切れてしまう場合も多いです。味の好みは分かれます。マニアックな部類に入りますので、人によっては掘り出しものに出会うかもしれません。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:サイトによる
・二次流通:多い
・プレミアム価格:定価・卸値も可能だが、二次流通品ではプレミアム価格の場合も多い
・価格帯:1,000円~10,000円程度
・例:ブランド名は上げませんが、新興蒸溜所、クラフト蒸溜所のニューボーンや、新商品の数量限定品が主になります。売れ切れるまでのタイミングでは入手が容易ですが、流通量は少ないです。流通量が少ないのにかかわらず、売れ切れないで長期間販売されている場合もあります。
・美味しさ:評価数の少ない場合が多いので、美味しいか否かは分かりません。
③メジャーブランドのフラッグシップボトル
・「フラッグシップ」といっても特定されているわけではないので、受け取り方にもよります。ただ、一般的に、「そのグループの中で、最も重要なものや優秀なもの。主力商品など」という事で、ここではオフィシャルリリースの中で(もちろん通年販売)、最も購入されているであろう主力商品という形で紹介します。
・時間的な余裕があれば、入手も容易で、安価
・概要:タイミングによっては、売切れている場合もありますが、少し待てば入手出来ることの多いウイスキーです。ただし、ウイスキーの流通は日々変化していますので、ある日突然入手困難なウイスキーとなってしまうかもしれません。
・酒小売店、量販店:あったりなかったり
・卸酒屋:待てば入る
・新品ネット:サイトによる、あったりなかったり
・二次流通:多いがプレミアム価格
・プレミアム価格:定価・卸値・二次流通品はプレミアム価格
・価格帯:1,000円~10,000円程度
・例:有名ブランドのウイスキーでも、少し高価な銘柄になります。店頭に出ると売れてしまう場合も多いので、店頭にない場合もありますが、供給はされているので、しばらく待てば再入荷がされるウイスキーです。例えば、サントリーのAoやニッカウヰスキーの宮城峡などです。特にサントリーのAoは、メーカーも押していますし、高い評価から低い評価まで幅広くあります。これは、ウイスキーに親しんでいる度合いによって評価が分かれるように感じます。総じて簡単にいうと、ウイスキーに親しんでいる方は高評価で、ウイスキー初心者の方には評価が低いと思われます。それだけウイスキーらしいということかもしれません。
・美味しさ:評価の高い、美味しいウイスキーが多いです。ただ、好みにもよって評価が分かれます。
④数量限定ボトル
・入手は困難だが安価
・概要:ほぼ購入できるタイミングはないが、運が良ければ定価で購入できるウイスキーです。有名な新興蒸溜所や有名ブランドの限定品などで販売数が少なく、一般の小売店や量販店で目にすることの少ないウイスキーです。すぐに売れ切れてしまいます。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ほぼない
・新品ネット:サイトによるが、すぐに完売
・二次流通:数も少なくプレミアム価格
・プレミアム価格:定価・卸値・二次流通品はプレミアム価格
・価格帯:1,000円~10,000円程度以上
・例:有名な新興蒸溜所や有名ブランドの限定品が主です。ただ、現在は、新商品でも数量限定のウイスキーがほとんどですので、ここに含まれます。良心的なサイトや卸酒屋の力関係によっては、定価や卸値で入手できる場合があります。その時点で入手出来ないと、二次流通品でしか入手できず、プレミアム価格になり高値になってしまいます。一般市場で目にする場合は、二次流通品(買取ショップ、転売)なので高値となっている場合が多いです。特定の卸酒屋でしか取り扱っていない場合や会員専用、抽選、先着順など、一般の消費者が購入できる機会はほぼないです。バーや飲食店でも、定価や卸値では、ほぼ入手出来ないです。厚岸や三郎丸などの国内の有名な新興蒸溜所の新商品やタリスカーディスティラーズエディションなどような限定品です。
・美味しさ:評価の高い、美味しいウイスキーが多いです。
⑤メジャーブランドのちょっと高級ウイスキー
・入手は容易で少し高価
・概要:欲しい時に購入は可能だが、定価そのものが高い、いわゆるちょっと高級なウイスキーです。一般の酒小売店、量販店で購入できる場合もありますが、少し価格(小売希望価格)の高いウイスキーです。
・酒小売店、量販店:ある
・卸酒屋:ある
・新品ネット:ある
・二次流通:ある
・プレミアム価格:定価・卸値
・価格帯:5,000円~10,000円程度以上
・例:有名ブランドのちょっと高級なウイスキーです。高級という表現は受け取る方によって異なりますが、家呑み用のウイスキーとしては高価かもしれませんが、ウイスキー本来の美味しさを感じられるウイスキーです。流通数は多く、入手も容易ですのでプレミアム感は薄いウイスキーです。例えば、タリスカー、ラガヴーリン、バランタイン、マッカラン、アードベッグ、デュワーズなどの熟年数が8年、10年、12年、17年など(ブランドによって熟年数の差があります)のウイスキーです。少し価格は高いですが、熟年数も多く、メーカーの希望小売価格で購入できるので、価格にあった味わいが期待できます。
・美味しさ:評価の高い、美味しいウイスキーが多いです。
⑥メジャーブランドの高級ウイスキー
・レアで入手は困難で少し高価
・概要:一般的には、入手は困難ですが、二次流通品は多いウイスキーです。どういうわけか、通常の仕入れルートでは、ほぼ入りませんが、かなりのプレミアム価格での二次流通品は多いウイスキーです。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:ない
・二次流通:ある
・プレミアム価格:かなりのプレミアム価格
・価格帯:10,000円程度以上~数万円以上
・例:一般の酒小売店、量販店での購入は難しく、タイミングによっては、ネットで購入できる場合もあります。会員限定での抽選やメーカーでの抽選販売なども多くあります。運よく当選すれば定価で購入することが出来ます。通常は、定価や卸値での入手は困難ですが、二次流通品(買取ショップ、転売)での販売数は相当数あります。しかし、かなりのプレミアム価格の場合がほとんどです。一般的な商流ルートである、メーカー→卸酒屋→飲食店の流通ルートで流れてくることのないウイスキーです。例えば、サントリーの山崎NV・12年、白州NV・12年、響JHやBC、ニッカウヰスキーの余市NV、竹鶴ピュアモルトNV、厚岸などです。二次流通品を除いて、流通ルートを確保している飲食店ですら入手が難しいウイスキーです。ごくまれに、コンビニや量販店にも出ている場合があります。すぐに売切れてしまします。
・美味しさ:評価の高い、美味しいウイスキーが多いです。
⑦オールドボトル
・入手はかなり難しく、かなりのプレミアム価格
・概要:終売品、古酒などで、個人コレクターの放出や二次流通品(酒販免許会社、個人)でしか入手できないウイスキーです。二次流通品では、たまに見かけることのあるウイスキーです。定価で入手できることはなく、プレミアム価格であれば購入できる場合の多いウイスキーです。しかし、終売品や古酒は、この方法しか入手できる手段のないウイスキーです。流通量が少ないのでかなりのプレミアム価格となっている場合がほとんどです。種類が多いので、流通量や価格は、銘柄によって大きく異なります。全く見かけることのないボトルも多くあります。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:ない
・二次流通:ある
・プレミアム価格:かなりのプレミアム価格
・価格帯:10,000円程度以上~数万円以上
・例:サントリーAoの終売品であるスモーキープレジャーような過去の終売品、特級表記時代の古酒、オールドボトルなどです。古酒などは、現在と比較しても原酒が異なることから、美味しいと人気があります。そうでない場合も当然あります。当たりはずれがあるということです。現在は、比較的安価に入手可能な、ホワイトホース、デュワーズ、タリスカー、バランタインヘイグ、などでも旧ボトルや旧旧ボトル、特級表記時代のウイスキーは人気があり、価格も高値の場合が多いです。好みはひとそれぞれです。ただ、飲める機会があれば飲んでみたいウイスキーのようです。
・美味しさ:評価の高い、美味しいウイスキーが多いです。古酒が多いので、傷んでいるものもあります。
⑧プレミアムボトル
・新品での入手は困難で高価
・概要:新品の商品ですが、流通ルートが限られており、流通数も非常に少なく、定価も非常に高いウイスキーです。二次流通品はありますが、そもそも流通数が少ないので、かなりのプレミアム価格になっています。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:ない
・二次流通:ある
・プレミアム価格:かなりのプレミアム価格
・価格帯:数万円以上~
・例:サントリーの山崎18年・25年、白州18年・25年、響30年・100周年ボトルなどの熟年数の多いウイスキーや、ローズバンクなどの流通数が少なかったり、流通ルートが極端に限定的なウイスキーです。正直、普通の人は、一生の内で口にすることはできないウイスキーが多いです。
⑨レアボトル
・二次流通品でも入手は困難で高値
・概要:終売品、古酒などで、個人コレクターの放出や二次流通品でも市場に出てくることがほとんどないウイスキーです。しかし、有名な銘柄や銘酒といわれるウイスキーが多く、マニアの中では、人気も歴史的価値のあるウイスキーも多いです。運よく入手できたとしても、再度入手出来る可能性の低いウイスキーです。値段よりも市場に出てくることがほとんどないウイスキーです。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:ない
・二次流通:ごく稀にある
・プレミアム価格:かなりのプレミアム価格
・価格帯:数万円以上~
・例:閉鎖蒸留所のポートエレン、ブローラや、タリスカーのジョニーウォーカーラベルやTBラベル、マップラベルのグリーンボトルなど古酒のある一定の年代のウイスキーなどです。この辺りのウイスキーは、かなりマニアックなので、マニアによります。欲しい人にとっては高価でも欲しいウイスキーも多いです。ただ、市場に出てくることはごく稀です。
⑩博物館級ウイスキー
・博物館級のウイスキーです。
・概要:終売品、古酒などで、市場で出てくることはほとんどないウイスキーです。販売数が極端に少なかったり、年代が古すぎる場合などです。万が一市場に出てきたとしても、次に出てくる可能性が低いウイスキーです。価格は、市場が決めるので、ボトル1本数万円~数百万円以上するウイスキーです。一部商品では、ウイスキー投資といわれ、金融商品に変わる投資商品になっています。
・酒小売店、量販店:ない
・卸酒屋:ない
・新品ネット:ない
・二次流通:ごく稀にある
・プレミアム価格:かなりのプレミアム価格
・価格帯:数万円~数百万円以上~
・例:価格的には、滅茶苦茶高くはないので、関心のある人が少ないと思われるジャンルと、価格的には、数千万円以上の場合もあるほど滅茶苦茶高くなる商品もある有名ブランドの有名レアボトルに分けられます。前者では、サントリーの前身の壽屋時代のウイスキー、ニッカウヰスキーの前身の大日本果汁時代のアップルワイン、閉鎖蒸溜所である軽井沢蒸留所の前身の大黒葡萄酒時代のボトルなどの歴史的価値のある商品があります。後者では、サントリーの山崎50年、マッカランの1946年、1926年、50年などです。「軽井沢1960年」が2023年のサザビーズ(ロンドンで競売)にかけられ、30万ポンド(約56000万円)で落札されました。日本ウイスキーの最高値記録では、2020年に香港で開かれたボナムズのオークションで、サントリー最高酒齢のシングルモルトウイスキー「山崎55年」620万香港ドル(約8515万円)で落札されています。世界の史上最高額では、「ザ・マッカラン1926」が2023年のサザビーズ(ロンドンで競売)で、218万7500ポンド(約4億1000万円)で落札されています。
■消費者の選択
消費者側の目線で鑑みると、ウイスキーだけでも、蒸溜所が増え、銘柄も増えています。さらに、同じ銘柄でも、熟年数の違いや熟成方法の違い、ブレンドの方法など、相当数のバリエーションとなります。また、スモールバッチや原酒不足による限定品が非常に多いので、入手も困難で、高値になります。昔の銘酒といわれるような古酒や幻の蒸溜所のウイスキーなどマニアックな視点まで含めると、正直、選択肢は無限大になります。また、入手も困難ですので、かかる費用も莫大になります。結局は、普通の人は見ることもなく、当然、口にすることもあり得ません。日本の有名銘柄のウイスキーですら口にすることは困難です。口にできるウイスキーは、小売量販店で売っているウイスキーになります。そのウイスキーで満足される方はそれで良いと思います。ただ、そのウイスキーを不味いと感じ、選択肢からウイスキーが無くなるのも残念です。また、新興蒸溜所のウイスキーは、味も様々です。人の好みも様々ですので一概にはいえませんが、中には口に合わないウイスキーも多いはずです。初めて飲んだウイスキーが不味く、二度とウイスキーは飲まないと思った方も多いはずです。多分、本当に美味しい、口に合うウイスキーに巡り合うことも難しいと思います。ただ、本当に美味しいウイスキーは美味しいのです。そして健康(糖質ゼロ)にも良いのです。どのような視点で選択すればよいか整理してみました。飲む目的によるとは思います。酔うことが目的、美味しいウイスキーを飲みたい、珍しいウイスキーを飲みたい、ウイスキーのことが知りたい、自分に合ったウイスキーを探したい、などなどです。飲み方にもよります。ストレート、トワイスアップ、水割り、ハイボール、コークハイなどなど、ウイスキーによってもマッチする飲み方も変わります。
①産地
スコッチ、ジャパニーズ、アイリッシュ、バーボンなどなどです。
②ウイスキーの種類
シングルモルト、グレーン、ブレンデッド、シングルカスクなどなです。
③新旧ボトル
古酒、定番ボトル、ニューボトル、限定ボトル
④新旧蒸溜所
伝統のあるブランド、定番ブランド、新興蒸溜所、評判の高い蒸溜所、閉鎖蒸溜所
⑤流通数
多い(定番品)、少ない(限定品、数量限定品)、かなり少ない(終売品、古酒)